悩ましく難しいイラクからの引き際

執筆者:徳岡孝夫2006年2月号

 戦争は、始めるより止めるときの方がずっと難しい。軍艦マーチで景気よく始まった日本の戦争も、昭和二十年八月に泣きの涙のうちに終わった。 昭和天皇の御聖断によってポツダム宣言受諾と決まり、詔書収録のあと、録音の具合を気遣う天皇が「もういっぺん読もうか」と仰ったと語って、当時の内閣書記官長・迫水久常は回顧談の途中で絶句落涙した。大日本帝国が七転八倒のうちに矛をおさめた瞬間である。 私は、もう一つの戦争が終わる瞬間を目撃した。それは一九七五年四月二十九日、南シナ海に浮かぶ米第七艦隊旗艦ブルーリッジの飛行甲板でだった。 とっぷり暮れた海の上に赤い灯が見え、近づいてくる。ベトナムの首都サイゴンから全館員を先に逃がした米大使が、ヘリで脱出して来るのである。 数時間前にサイゴンを離れた私と、同じようにヘリで退避した米人記者四人か五人が、赤い灯を見守った。「大使はVサインをしながら降りてくるかな?」 私はジョークのつもりで言ったが、誰も応じなかった。激しかった反戦運動。ベトナムに関わったがためにアメリカは、のたうちまわって苦しんだ。その戦争が、いま熄む。米人記者は無言だった。 ヘリは着艦し、少し間をおいて大使が出てきた。熱帯の夜にコート&タイの姿で、畳んだ星条旗を両手に捧げ持っていた。拍手もVサインもなかった。押し寄せる共産軍の前に最後まで米大使館の屋上に翻っていた彼らの国旗は、こうして最後のヘリで洋上へ移った。その二年前のパリ和平協定で米軍はすでにベトナムから去っていたので、米国はせめてもの「名誉ある撤退」を演出し得た。

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