半世紀を超える自由民主党の歴史でも、総裁選に同じ派閥から複数の立候補者が出て覇を競ったケースは数えるほどしかない。最近では、参議院選挙大敗の責任を取り辞意表明した橋本龍太郎首相(当時、以下同)の後任を決める一九九八年の総裁選に、小渕派会長の小渕恵三外相と副会長の梶山静六前官房長官(直前に派閥を離脱)が出馬したのがその代表例だ。 近親憎悪的な人間関係のもつれに加え、一本化調整の失敗という経緯を経るだけに、同門対決は激しい感情的対立に発展しやすい。同時に、政策的な対立も先鋭化する傾向にある。「同門対決やむなし」と自らに言い聞かせるための大義が、候補者本人にも派閥メンバーにも必要だからだろう。強引な口封じも図った森氏 小渕対梶山がまさにそうだった。ともに「我こそは」と意気込む両氏は派閥の綿貫民輔会長代理や野中広務党幹事長代理らの調整をはねつけ、総裁選に駒を進めた。草刈り場になることを恐れた三塚派が小泉純一郎厚相を擁立し、選挙戦は田中真紀子氏が「凡人、軍人、変人の争い」と評した三つ巴の構図になった。結果は小渕氏二百二十五票、梶山氏百二票、小泉氏八十四票。小渕氏がダブルスコアで梶山氏を下したが、論戦では梶山氏が奮闘した。思い切った財政出動で景気浮揚を図るとした小渕氏に対して、梶山氏は抜本的な不良債権処理を行ない、金融の安定化を図る以外に不況脱出の道はないと訴えた。債務超過の銀行は潰し、危険水域にある銀行には公的資金を注入し、一気呵成に不良債権処理を進めるべきだと説いたのである。梶山氏の主張はその後、形を変えて小泉内閣で日の目を見ることになる。

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