三菱重工業長崎造船所は、日本の近代造船業の発祥の地である。長崎港を挟んでグラバー公園の対岸にある飽の浦に、長崎海軍伝習所船「観光丸」の修理場として日本初の洋式工場、長崎鎔鉄所(製鉄所)が建設されたのは一八六一年(文久元年)。維新後、一八八四年(明治一七年)七月七日に三菱社に貸与され、近代造船が立ち上がる。 船を修理するためには、金属を加工する必要がある。そこで幕府は、鎔鉄所開設に併せてオランダ製の竪削盤を一八台輸入する。高さ約二メートル。中央に円盤の加工台があり、蒸気によってモーターが回り、動力はベルトで伝えられて刃物が上下する。この最古の竪削盤は重要文化財に指定され、三菱重工長崎造船所の中にある史料館で展示されている。史料館館長の横川清は、「鎔鉄所に採用された職人たちは、“自動式”という概念の何たるかに度肝を抜かれたに違いありません」と、どこか誇らしげに語る。 現在の長崎造船所は、鎔鉄所の跡にできた本工場、長崎港の南西対岸にある香焼工場など四つの工場からなっている。造船所といっても舶用機器はもちろん、発電プラント、宇宙機器、原子力機器、そして各種の制御システムまでつくる、まさに重厚長大型産業の集積地だ。年間生産能力は、新造船で一九〇万総トン。歴史、陣容からして長崎造船所を見ずして造船の連載は書けない。

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