『パン・ヨーロッパ』R. N. クーデンホーフ・カレルギー著/鹿島守之助訳鹿島研究所 1961年刊 第一次大戦の終結は欧州政治に晴天をもたらさなかった。一九一九年の対独ヴェルサイユ講和締結から二十年後には、早くも次の大戦が始まる。大戦が「第一次」になったのも、「第二次」が続発したからだ。英国の同時代史家E. H. カーは大戦間期を「危機の二十年」と呼んだ。が、それでもこの間、薄日ひとつ差さなかったわけではない。まず戦勝国による対敗戦国「強制の時期」、そのあと二四年には「協調の時期」が始まった、とカーは書く。「強制」が終わろうとした一九二三年春、旧オーストリア・ハンガリー帝国出身の一哲学・歴史学徒がウィーンで『パン・ヨーロッパ』なる著作を世に問い、評判を呼んだ。 著者リヒャルト・N・クーデンホーフ=カレルギーは当時二十九歳。伯爵の家柄で、父ハインリッヒがハプスブルク帝国の日本駐在公使時代に町人の娘・青山光子と結婚したため、東京生まれだった。大戦期にウィーン大学に学び哲学博士号を得たが、世に出ようというとき祖国は敗戦、大帝国は解体された。だからリヒャルトは、自分が一体どの国の国民なのか、つまり、小国化したオーストリア「共和国」、同じ敗戦の憂き目から同言語のオーストリアを合邦したがったドイツ(「ワイマール共和制」)、それとも父の所領ロンスペルクの新たな主たるチェコスロヴァキア共和国の、いずれの国籍を持つべきなのか分からなくなった。

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