“独裁”を脱した防衛省の立て直し方

執筆者:伊奈久喜2007年10月号

人事も政策も壟断した“大型次官”がようやく職を解かれた防衛省。なおも居座りたいご当人には、別にうってつけの役割がある。 四年を超えて防衛事務次官を務めた守屋武昌氏は、日本官僚史に残る人物になった。小池百合子前防衛相の退任要請に公然と逆らい、安倍晋三首相の意向を聞いて退任を受け入れてからも、内閣改造による大臣交代の間隙をついて常任顧問として留まって院政を狙う。政治家も顔負けの官僚だった。 守屋路線は“長期政権”に常に伴う独裁化の結果、政策面でも問題があった。高村正彦防衛相、増田好平次官がとるべき道は明確。守屋路線の否定である。したがって守屋氏の人物像を明らかにすれば、新生防衛省の課題が見えてくる。 防衛省の内紛決着を多くのメディアは「痛み分け」と評した。守屋次官の退任を当然の前提とし、後任をめぐる争いと考えれば、小池氏の推した西川徹矢官房長でもなく、守屋氏が考えた山崎信之郎・運用企画局長でもなく、増田人事教育局長が選ばれたのだから、確かに痛み分けだ。 だが、内紛の本質はポスト守屋ではなく、次官在任が五年目に入った守屋氏自身を退任させるかどうかだったと考えれば、守屋氏の完敗だった。守屋退任劇は、一九七八年に「奇襲侵略を受けたら一線の指揮官は超法規的措置を取らざるを得ない」と有事立法を促す発言をした栗栖弘臣・統合幕僚会議議長を金丸信防衛庁長官が解任した時を連想させる。額賀福志郎氏、久間章生氏ら歴代大臣にはできなかった荒療治だった。

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