年末年始「人望低下」を競った福田・小沢のマッチレース
昨年十二月に公明党の太田昭宏代表と福田康夫首相が一対一で会談する機会が二度あった。一度目は十一日夜の首相公邸。このとき、太田氏は「公明党としては、衆院解散は来年(二〇〇八年)秋以降にしてほしい」と迫った。次期衆院選では、与党が衆院での三分の二の優位を維持できないことはほぼ確実で、政府・与党提出法案がほとんど成立しなくなる事態も想定できるだけに、総選挙後の戦略がないままの解散は福田政権の自殺を意味する。そんなことは百も承知の首相は、「何を今さら」という苦笑いの表情を浮かべつつ、「まあ、まあ、今後も協力をお願いします」とかわした。 しかし、その約一週間後に事態は変化した。薬害肝炎訴訟への対応の不手際などを原因として、内閣支持率が急落したのだ。このままの支持率で選挙戦に突入すれば、与党は敗北する。三分の二の優位を失うとか法案が通らないとかの問題よりも深刻で、政権を民主党に奪われかねない。ますます選挙先延ばしが必要な状況となった。 新たな事態を受けて、太田氏が再び首相を訪ねたのは、年の瀬も押し詰まった二十七日午前。この日の午後から首相が訪中するため、話題は中国への政府開発援助(ODA)問題などに集中した。当初、太田氏はこの会談で、解散時期についてもうひとつの注文を付けるつもりだったという。それは、公明党が国政選挙なみに力を入れる〇九年七月の東京都議選と密接に関係した要望だ。公明党は支持母体である創価学会の選挙態勢を構築する上で、大きな選挙が連続して行なわれる状況は避けたい。このためには、前回会談での太田氏の発言は言葉が足りなかった。「秋以降」に加えて太田氏は「都議選の前後半年はやめてほしい」と迫る必要があったのだ。衆院の任期満了は〇九年九月だから、その公明党側の条件をのめば、都議選以降の衆院選は不可能。そうなると、解散は〇八年秋―〇九年一月になる。
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