1964年のギリシャ

執筆者:徳岡孝夫2015年7月13日

 ギリシャの首都アテネから五輪競技の聖地オリンピアまで、私の車の距離計では331.8キロだった。距離は今も変らないだろう。東京―名古屋にほぼ等しい。
 コリントスの橋を渡ったところで、道路はギリシャ本土からペロポネソス半島に入る。19世紀末に掘削されたコリントス運河は、切り立った両岸に挟まれた一直線の深く美しい水路で、掘ったギリシャ人のヘレニズム魂を感じさせる。
 古代彫刻に囲まれて育ったギリシャ人は、あくまでも明るい陽光を浴びた風土に助けられ、いまだにどこかホメロス的な明晰、雄大を保っている。
 日本人は、なでしこの活躍に気圧され、遠慮して思い出さないが、古代の五輪競技は男だけで行い、女性は見ることもできなかった。ある婦人は、我が子の勝利を見たくて堪らず、薄衣(はくえ)をまとって観客席に入った。息子は勝ち、興奮した母は抱きしめようとして衣が客席を仕切る柵に引っ掛って裂け、性がバレて罰せられたという。

 しかし時は人を変える。50年前の日本人は、オリーブ油が口に合わなかった。ギリシャ人は逆に、あらゆる料理をオリーブ油に浸していた。
 アテネから北、サロニカ(現テッサロニキ)を経てカバーラというエーゲ海に臨む古い町に来たとき、ちょうど昼時になった。古代ローマの水道を仰ぎながら新鮮な魚の塩焼きも悪くないと思い、海沿いの青空料亭に車を停めた。
 2人で1尾ずつ、気前よくデカイのを注文し待つことしばし。料理番のオッサンは、焼き上がったのを丸ごと、ドブーン、オリーブ油の桶に放り込んだ。アーッ。
 50年後のいま、日本のお料理本には普通のことのように「たっぷりのオリーブ油で……」などと書いてある。日本人のする事とは思えない。
 ペロポネソス半島は、行けども行けどもオリーブの林である。かなりの大木である。
 オリーブ林は波打つ丘陵地だから、イネの植付けには適しないし、だいいち毎年あの大木を抜いて裏作などできない。
 その代わりオリーブは手のかからない作物で、日が照って雨が降れば毎年定収入がある。「ここからあそこまで」と、土地を区切って、オリーブの林を娘に持参金として与える風習もあると聞いた。

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