古代の朝鮮半島を新羅が制した理由

執筆者:関裕二2015年9月15日

 米国と中国の2つの大国を天秤にかけるような韓国の外交姿勢が、「事大主義」と批判されている。
 広辞苑によれば事大主義とは、「自主性を欠き、勢力の強大なものにつき従って自分の存立を維持するやりかた」のことだそうだ。
 だが、事大主義は、半島国家の宿命なのかもしれない。強大な勢力から逃れた人たちが半島に流れ込み、逃げ場を失い、大国の顔色をうかがうようになったのだろう。そして、「一番強いところに靡(なび)く」習性がついてしまったのではないだろうか。
 19世紀後半の朝鮮も、清、日本、ロシアと、事大先をころころと変えた。
 古代の朝鮮半島にも、似た事例がある。そこで、中国、朝鮮半島、日本列島をめぐる古代の外交戦について、考えてみたい。

楽浪郡と帯方郡

 紀元前108年、漢王朝が朝鮮半島北部に進出し、楽浪郡を建て(現在の平壌一帯。のちに楽浪郡の南側を割いて作られたのが帯方=たいほう=郡)、朝鮮半島に強い影響力を及ぼしていた。韓族は朝鮮半島南部に集まり小国家群を形成し、西暦40年ごろから、楽浪郡に朝貢するようになっていた。3世紀になると『三国志』や『三国志演義』で知られる魏が、朝鮮半島に進出した。魏は朝鮮半島の小国家群の首長に「邑君(ゆうくん)」の印綬を授け、魏の外臣と認め、冊封体制を固めた。ちなみに、邪馬台国の卑弥呼が帯方郡に使者を送り込み親魏倭王の称号を獲得したのも、この時代のことだ。
 朝鮮半島情勢が大きく動くのは、3世紀末から4世紀初頭だった。魏は晋(西晋)となり、蜀と呉は滅亡したが(263と280)、晋も安定せず匈奴の劉淵(りゅうえん)が「漢王」を自称し、晋から独立し(304)、五胡十六国の時代が到来する。このとき朝鮮半島北部で台頭してきたのが、騎馬民族国家の高句麗だった。高句麗は中国の王朝になりかわり、楽浪郡と帯方郡を占領し、さらに南下する気配を見せた。震え上がったのは半島南部の小国家群で、それぞれが団結し、国家に成長していった。それが、西南部の百済と東南部の新羅で、高句麗と国境を接していない最南端の伽耶諸国は、小国家群を維持していく。

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