この連載では私が勤務した国連のイラン制裁専門家パネルの話を中心にお伝えしていますが、イランが制裁を受けることになった原因である、イランの核開発について現時点でわかっていることを紹介しておかないと、実際の業務の中身を論じるのも難しいので、ここから何回かに分けてイランの核開発などについて説明していきます。

暴かれたイランの核開発

 イランは1979年のイラン・イスラム革命の前まではアメリカの同盟国であり、中東における親米大国であった。パーレビ王朝による独裁的な政権の下で、アメリカはイランの平和的な原子力利用を推奨し、多くのイラン人がアメリカで原子力技術を学んでいた。それ以外にもあらゆる分野でアメリカへの留学が積極的に行われ、現在のロウハニ政権でも核交渉の当事者であるザリフ外相やサレヒ原子力庁長官も米国留学組だった。
 しかし、1979年の革命により、アメリカとの国交は断絶し、1980年からはイラン・イラク戦争に突入した。この時、イラクは大量破壊兵器である化学兵器(毒ガス)を使用したとされる。これに対し、イランは大量破壊兵器による報復を目指し、核開発を進めようとしたが、この時点では技術力の限界から具体的な計画を進めることはできなかった。しかし、「核の闇市場」で核開発技術を売り歩いていた、パキスタンのA.Q.カーンという人物がイラン・イラク戦争中の1980年代後半からイランに接触し、核開発技術、具体的にはウラン濃縮技術を提供したことが明らかになっている。
 イランが具体的に核開発に向けて動き始めるのは1999年と言われるが、その計画は2002年にイランの反体制派による情報から発覚し、イランの核開発疑惑が一気に国際的な問題に浮上した。

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