国連イラン制裁の現場から(3)イラン核開発の経緯

 この連載では私が勤務した国連のイラン制裁専門家パネルの話を中心にお伝えしていますが、イランが制裁を受けることになった原因である、イランの核開発について現時点でわかっていることを紹介しておかないと、実際の業務の中身を論じるのも難しいので、ここから何回かに分けてイランの核開発などについて説明していきます。

暴かれたイランの核開発

 イランは1979年のイラン・イスラム革命の前まではアメリカの同盟国であり、中東における親米大国であった。パーレビ王朝による独裁的な政権の下で、アメリカはイランの平和的な原子力利用を推奨し、多くのイラン人がアメリカで原子力技術を学んでいた。それ以外にもあらゆる分野でアメリカへの留学が積極的に行われ、現在のロウハニ政権でも核交渉の当事者であるザリフ外相やサレヒ原子力庁長官も米国留学組だった。
 しかし、1979年の革命により、アメリカとの国交は断絶し、1980年からはイラン・イラク戦争に突入した。この時、イラクは大量破壊兵器である化学兵器(毒ガス)を使用したとされる。これに対し、イランは大量破壊兵器による報復を目指し、核開発を進めようとしたが、この時点では技術力の限界から具体的な計画を進めることはできなかった。しかし、「核の闇市場」で核開発技術を売り歩いていた、パキスタンのA.Q.カーンという人物がイラン・イラク戦争中の1980年代後半からイランに接触し、核開発技術、具体的にはウラン濃縮技術を提供したことが明らかになっている。
 イランが具体的に核開発に向けて動き始めるのは1999年と言われるが、その計画は2002年にイランの反体制派による情報から発覚し、イランの核開発疑惑が一気に国際的な問題に浮上した。

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執筆者プロフィール
鈴木一人(すずきかずと) すずき・かずと 東京大学公共政策大学院教授 国際文化会館「地経学研究所(IOG)」所長。1970年生まれ。1995年立命館大学修士課程修了、2000年英国サセックス大学院博士課程修了。筑波大学助教授、北海道大学公共政策大学院教授を経て、2020年より現職。2013年12月から2015年7月まで国連安保理イラン制裁専門家パネルメンバーとして勤務。著書にPolicy Logics and Institutions of European Space Collaboration (Ashgate)、『宇宙開発と国際政治』(岩波書店、2012年サントリー学芸賞)、編・共著に『米中の経済安全保障戦略』『バイデンのアメリカ』『ウクライナ戦争と世界のゆくえ』『ウクライナ戦争と米中対立』など多数。
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