カシミール紛争は「文明の衝突」か「対テロ戦争」か 地政学理論で鮮明化する印パの異なる主観的構図

執筆者:篠田英朗 2025年5月21日
タグ: インド 紛争
エリア: アジア
カシミール紛争は、アフガニスタンも絡む「グレート・ゲーム」の国際的対立構図とつながっている[カシミール地方の都市スリナガルで警備に当たるインド兵=2025年5月12日](C)EPA=時事
トランプ米大統領が「千年にわたる紛争」と描写したように、カシミール紛争をイスラム教徒vsヒンドゥー教徒の構図で捉えると、ハンティントン的な「文明の衝突」の構図に沿った理解へとつながる。一方、海洋勢力vs陸上勢力という英米系地政学理論の観点では、インドが海洋勢力にとっての橋頭堡と位置づけられる。その発想の先には、インドが自国を「対テロ戦争」の最前線としてアピールする戦略も出てくる。

 インドとパキスタンの間の2025年5月の軍事衝突は、4日間で終了した。これは長期にわたる紛争の一断面であると同時に、現代世界の事情を反映した要素も持っているだろう。インドというGDP(国内総生産)で世界第3位(購買力平価)の経済力を持つ人口14.5億の核保有国が、人口2.4億のもう一つの核保有国と軍事衝突を繰り返す状況は、国際政治の全体構図に大きく影響する。本稿では、21世紀の国際政治の現実の中で、大局的・歴史的な視点から、カシミール紛争が持つ意味を考え直してみる。その際にカギとなるのは、海洋勢力と陸上勢力の対立構図にそった二元的世界観に依拠する「英米系地政学理論」と、複数の文明圏域の存在を前提にした多極的世界観に依拠する「大陸系地政学理論」だ(篠田英朗『戦争の地政学』[講談社、2023年])。

「グレート・ゲーム」の橋頭堡としてのインド亜大陸

 カシミール紛争が、1947年にインドとパキスタンが大英帝国から独立した際に生まれた領土紛争であるのは確かだ。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒を別々の国として独立させる方針になったとき、領土の区分けの処理がつかず、そのまま80年近くにわたって解決しない領土問題となっている。だが、それだけではない。もう少し大きな視点から見てみることもできる。

 メディアで多用されている一般的な説明は、次のようなものだ。ムガール帝国を崩壊させたイギリスの統治下で、ジャンムー・カシミール藩王国(Princely State of Jammu and Kashmir)(1846年-1947年)と呼ばれる政治体が成立していた。インド・パキスタン分離独立の際、ヒンドゥー教徒の藩王が、インドへの帰属を表明したが、住民の大多数がイスラム教徒であったために、紛争が勃発した。

 ただ、この史実の解釈を単純化しすぎてはいけない、という指摘もある。イスラム教徒の住民たちがパキスタンへの帰属を望んだ経緯はなく、どちらかというとインドへの帰属を望んでいたという。また、当時の藩王はインドとパキスタンのどちらにも帰属せず独立することを目指していた。ところが、パキスタン側からパシュトゥーン人の部族戦士たちがジャンムー・カシミール北部に侵入し、インドの助けを借りないと住民の安全も確保できなくなった。そこでインドに依存することになりインド連邦への加盟を決断した。

 パシュトゥーン人がジャンムー・カシミールに襲来したのは、独立しようとしていた藩王国をパキスタンに編入させるためか、あるいはいずれにせよイスラム教徒の統治を確立させるためであったと言える。公式にはパキスタン政府が指揮した襲来ではなかったが、非公式には動員をしていたと考えられている。

 当時、インド全土で惨事が起こっていた。独立時の騒乱で死亡した人々の数は、全土で数十万人単位であったとされる。数百万人単位での住民移動に伴う難民化も起こった。その状況では、ジャンムー・カシミール藩王が目指したヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間での中立的な独立などは不可能に近かった。

 このときジャンムー・カシミールに侵入してきたパシュトゥーン人とは、パキスタン領内にあるアフガニスタンと国境を接する北西辺境州(カイバル・パクトゥンクワ州)から来た者たちであった。カイバル・パクトゥンクワ州は、2018年から、タリバンが勢力を温存するための後方支援地帯になっていた「連邦直轄部族地域(FATA)」(トライバルエリアとも呼ばれる)を、南部で併合している。FATAは、アフガニスタンに米軍が駐留していた時代には、しばしばタリバンやアル・カイダ掃討作戦が行われた場所であった。

 なおパシュトゥーン人は、アフガニスタンで最大の勢力となっている民族集団であり、パキスタン側とアフガニスタン側にまたがって居住する。両国は、1893年に大英帝国がアフガニスタン国王との間で結んだ協定に基づく「デュランド・ライン」と呼ばれる境界線を認めていない。係争になっている大きな理由が、パシュトゥーン人の居住地域が人工的に分断されていることだ。

「デュランド・ライン」とは、アフガニスタンから大英帝国インド領に侵攻する勢力を防ぐために設置した境界線だ。19世紀においてアフガニスタンが、イギリスとロシアが激しくせめぎあう「グレート・ゲーム」の主戦場であったことと深く関わる。

 カシミール紛争は、実はアフガニスタンとも連なりつつ、国際政治の全体構図の中での「グレート・ゲーム」の二元論的な国際的対立構図ともつながっている。大英帝国の統治を通じて、海洋勢力と陸上勢力が対峙する「英米系地政学理論」の構図が、ユーラシア大陸の「橋頭堡」としてのインド亜大陸に持ち込まれた。「橋頭堡」の付け根にあたる部分に位置するカシミールの紛争も、これと無関係ではない。

「文明の衝突」の構図に沿ったトランプ大統領の歴史認識

 インドとパキスタンの間の調停を果たした、と自負するアメリカのドナルド・トランプ大統領は、SNS投稿で、カシミール紛争を「千年にわたる紛争」と描写した。軍事衝突のきっかけとなった4月22日のパハルガムでのテロ事件に際しても、トランプ氏は同様の発言をしていた。

カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
篠田英朗(しのだひであき) 東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程、ロンドン大学(LSE)国際関係学部博士課程修了。国際関係学博士(Ph.D.)。国際政治学、平和構築論が専門。学生時代より難民救援活動に従事し、クルド難民(イラン)、ソマリア難民(ジブチ)への緊急援助のための短期ボランティアとして派遣された経験を持つ。日本政府から派遣されて、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)で投票所責任者として勤務。現在も調査等の目的で世界各地を飛び回る。ロンドン大学およびキール大学非常勤講師、広島大学平和科学研究センター助手、助教授、准教授を経て、2013年から現職。2007年より2024年まで外務省委託「平和構築人材育成事業」/「平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業」を、実施団体責任者として指揮。著書に『平和構築と法の支配』(創文社、大佛次郎論壇賞受賞)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞受賞)、『集団的自衛権の思想史―憲法九条と日米安保』(風行社、読売・吉野作造賞受賞)、『平和構築入門』、『ほんとうの憲法』(いずれもちくま新書)、『憲法学の病』(新潮新書)、『パートナーシップ国際平和活動』(勁草書房)など、日本語・英語で多数。
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