諏訪大社「御柱祭」に宿る縄文の息吹

執筆者:関裕二2016年4月8日

 諏訪大社で、7年に1度の御柱祭(おんばしらまつり)が執り行われている(数え年なので、実際には6年毎。寅と申の年)。モミの大木16本を山から里に曳き、諏訪大社を構成する4つの社、上社(かみしゃ)の本宮(ほんぐう、諏訪市)と前宮(まえみや茅野市)、下社(しもしゃ)の春宮(はるみや)と秋宮(あきみや、ともに下諏訪町)それぞれの社殿の4隅に立てる。
 御柱祭が有名になったのは、「けが人や死者が出る祭り」だからかもしれない。たとえば山だしでは、急坂を滑り下る大木から人々がふるい落とされ、下敷きになることもある。
 記録によれば、平安時代初期、桓武天皇の時代から祭りが行われていたというが、なぜ危ない祭りをつづけてきたのだろう。諏訪の住人は、普段穏やかなのだが、ひとたび御柱祭や歴史の話になると、人が変わったようになる。何やら複雑な事情が隠されているようなのだ。

下社は「ヤマトのまわし者」?

 諏訪大社の祭神は出雲を追われた建御名方神(たけみなかたのかみ)と妃の八坂刀売神(やさかとめのかみ)だが、上社と下社では、神職の系譜が異なる。上社の神職の長(大祝=おおほうり=)が建御名方神の末裔で、下社の長は神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の末裔なのだ。そのためなのだろうか、上社の周辺の人々は下社を、「彼らはヤマトのまわし者」と言い、いまだに敵視している。命がけの祭りを続けてきたのは、この敵愾心と、守るべき誇りがあったからなのかもしれない。
 諏訪の古代史は、普通とはどこかが違う。科野(しなの、信濃)国造(くにのみやつこ)の支配に抵抗したし、周辺には多くの渡来系氏族が移入したが、諏訪だけは、拒み通した。独自の信仰に固執し、仏教寺院が建てられたのも鎌倉時代に入ってからのことだった。
 ただし、中央と地方の確執と意地の張り合いという単純な話でもなさそうだ。
 諏訪の人々を突き動かしているのは、縄文の息吹ではなかったか。諏訪一帯は石器時代の利器・黒曜石の有数の産地として栄えた。近くで国宝土偶「縄文のビーナス」「仮面の女神」がみつかっているように、縄文王国と呼ぶにふさわしい土地だった。そのためだろう、上社の祭祀形態には、狩猟民的な要素が満ちあふれている。
『日本書紀』を編纂した8世紀の朝廷は、「狩猟民の文化」を蔑視していくが、諏訪の人々は逆に「ヤマト」を嘲笑い、郷土の伝統に誇りを抱き続けていたのである。

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