国連によるイラン制裁は核・ミサイル開発を阻止し、大量破壊兵器の不拡散を目指すものであった。しかし、そうした「ターゲット制裁」だけでは効果が充分には出ないため、大量破壊兵器の開発と密接に関連し、また開発を担う主体(イランの場合はイスラム革命防衛隊:IRGC)の収入源ともなっている、通常兵器の輸出入も制裁対象となっていた。また、国連安保理制裁の中でも、内戦やクーデター、人権抑圧などに対する制裁では、制裁対象となる行為と通常兵器は密接に関連するため、武器禁輸が制裁のメニューの中に組み込まれることが多い。
 こうしたことから、イランや北朝鮮といった核・ミサイル開発に対する制裁においても武器禁輸が制裁項目として含まれることになったが、イランの場合はもう1つ特殊な事情があった。

「エルサレムへの道」を切り開く部隊

 イランは1979年のイスラム革命以降、イスラム共和国という特殊な政治体制を構築し、イスラム教の教義に基づいた社会を目指しながら、西洋的な共和国の仕組みを取り込むことで、革命前の独裁政権から決別した、人々のための政体を作るということが国家目標であった。
 イランにおけるムスリムの大多数はシーア派の信徒であり、イスラム教の教義といってもシーア派の教義に基づく社会を作ろうとしている。しかし、イスラム教全体から見るとシーア派は少数派であり、サウジ東部からバーレーン、イラン、イラク、シリア、レバノンに至る限られた地域にシーア派ムスリムが多く住むと言われている。この地域を「シーア派の弧」や「シーア派の三日月」と呼ぶことも多い。

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