縄文時代に「流通の要衝」だった対馬にある和多都美神社(筆者撮影)

 

 沖縄県中頭郡北谷町(ちゃたんちょう)の平安山原(はんざんばる)B遺跡から見つかった縦横5センチの土器破片が、縄文時代晩期(3000年からニ千数百年前)の東北地方の大洞A式土器(亀ヶ岡式土器)にちがいないと報告された(2017年1月24日、北谷町教育委員会)。沖縄で初めてみつかった縄文土器である。

 東北の人々が直接沖縄にもたらしたわけではないだろう。航海術に長けた海人(あま)と商人の存在を想定すべきだ。縄文商人はすでに「陸路」と「航路」を開き、「ネットワーク」を確立していた。黒曜石は産地から遠く離れた場所に運ばれていたし、縄文人は貝を保存食にして内陸部に運んでいた。目的は交易であり、その残骸が貝塚である。

 そして、彼ら縄文商人たちが順番に文物を交換し合っている間に、東北の文物が沖縄に渡っていった可能性が高い。

 そこで今回注目しておきたいのは、活発に動き回っていた縄文商人(海人)のことだ。沖縄でみつかった縄文土器は、古代史をめぐる意外な事実をわれわれに突きつけようとしている。

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