「騎兵」と「歩兵」の「均衡」と「充実」(上)
2017年4月29日
30代前半の頃、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』を新聞連載中に読んだ。当時、自衛隊の尉官であった筆者たちは「我々は社会の日陰者か」という僻みを多少なりと持っていたので、そこに突如現れたこの小説は、砂漠の中のオアシスのように我々を潤してくれた。
「坂の上の雲」と「リデル・ハート」
この小説は、伊予松山生まれの秋山好古(陸軍軍人)・真之(海軍軍人)兄弟と正岡子規(俳人)、この3人の生き様と明治時代をテーマにしたものである。3人とも極めて魅力的なのだが、騎兵の流れを汲む機甲(戦車)兵だった筆者が最も惹かれたのは、秋山好古であった。「フランス仕込みの好古の騎乗姿は前屈みで勇ましくはないが、それは、あらゆる状況の変化に応じうる柔軟性の表れである。彼が世界一のコサック騎兵に負けなかったのは同様に頭脳の柔らかさを保っていたからだ」という名解説に、筆者は酔った。
丁度その頃、我々は「戦車不要論」というものに悩まされていた。「特に日本のように平地の少ない地形では、戦車は役に立たない」という意見が政治家、官僚、マスコミの中に多く、多数を占めていた歩兵出身の先輩自衛官たちもこれに反論できずにいた。
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