6月7日朝、イランの首都テヘランで重要な象徴的意味を持つ標的少なくとも2カ所に対して同時に攻撃が行われた。国会とホメイニ廟にそれぞれ複数の犯人が侵入し、銃撃の上、自爆(一部に薬物による自殺も含まれるという情報がある)した。

午後に銃撃戦が終結した段階で、12名が死亡したとされている。

「イスラーム国」のメディア部門を称するアゥマーク通信が犯行声明を出しているが、報道で伝わっている以上の情報はなく、「実況」をしているに近い(ただし国会の中から撮ったと見られる映像も出してきているが、入手経路は不明)。事件との直接の繋がりは分からない(そもそもアゥマーク通信の名前で出る個々の声明が、シリアやイラクの「イスラーム国」とどの程度の繋がりがあるかすら、確定はできないのである)。

1990年代の湾岸戦争から、イラク戦争、そして「アラブの春」までの過去30年弱の間、中東は断続的に動乱やテロに見舞われてきたが、その中で、イランは安定していた。米国との関係は断絶し経済制裁を受けてきたが、治安は維持されてきたのである。それは「アラブの春」後も変わりなかった。

1979年のイラン革命の前後は、熾烈な権力闘争や介入・陰謀によるテロがイラン社会に吹き荒れた。その時代に遡らないと前例が見出せない、テヘラン中心部の象徴的な標的に対する大規模なテロである。この背後に何が隠れているのか、何に結びつくのか、暗雲が立ち込めはじめたペルシア湾岸政治を凝視していなければならない。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。