幕末の志士・高杉晋作は日清関係をどう見ていたか(C)国立国会図書館デジタルコレクション

 

 前回の拙稿に対しても、またも思いがけずに長文のご意見を賜わり深謝致します。

 日本の立場から中国問題を論じる時、現在にせよ過去にせよ、我々の前には中国が強弁する「歴史認識」が立ちはだかり、日本は一歩も前に進めない。そこで彼らの掲げる「歴史認識」が根拠とする“歴史的事実”をさらに遡り、いったい日本と日本人は中国をどのように捉えてきたのかを、改めて振り返ってみることも必要ではないか――こんな視点から、以下を綴ってみた。

上海に渡った幕府船「千歳丸」

 清朝による管理貿易体制を打ち砕き、ほぼ閉鎖状態にあった清国市場を対外開放させ、世界市場に引きずり出したアヘン戦争が勃発した1840年は、江戸の年号では天保11年に当たる。それから22年が過ぎた文久2(1862)年、江戸幕府はイギリスから購入した木造船を千歳丸と命名し、上海に派遣した。折しも南方の広西で清朝打倒の兵を挙げた太平天国の軍勢が、首都に定めた南京から長江を下流に向かって進撃し、上海郊外にまで迫っていた。千歳丸の任務は、上海における交易の可能性を探ること。千歳丸に先立つ万延元(1860)年、幕府は最初の外国派遣使節として遣米使節団(正使は新見豊前守)を送り出している。

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