五代友厚は薩摩藩出身で維新政府の参与も務めたが、後に官を辞し、大阪で実業家に転身。大阪経済発展に寄与した(C)国立国会図書館

 

 維新から5年が過ぎた明治5(1872)年、清国政府との間の最初の本格的外交交渉がまとまったことで、明治政府は外務卿・副島種臣を清国に派遣し、日清修好条規批准書交換を果たす。随員の1人である海軍軍人の曾根俊虎は、その後も複数回(明治6、7、9、12、13、17年)にわたって清国各地を歩いている。おそらく兵要地誌作りが主な目的だったろう。このうち明治6、7両年の体験を綴ったものと思われる『北支那紀行』(出版所不詳 明治8・9年)を読み進むと、こんな記述が目についた。

満州の英仏普「インテリジェンス要員」

 営口は大連開港以前、満州を代表する開港場として知られる。この地で訪ねたイギリス領事の紹介を受け、曾根は「英商『クライアト』氏ノ宅ニ転居」する。この人物は、「此地ニ在ルヿ前後十二年ニシテ支那ニ知己多ク説話亦支那人ト一般ナリ此邊地方ノ地理、人情、物産等ノ物ヲ問フニ甚ダ悉セリ」とのこと。営口に住まうこと12年。知己友人も多く、中国人と同じように現地語を話し、現地事情に通じていたわけだ。加えて「英商『クライアト』氏」を訪ねて来たプロシャ人は、「前月ヨリ北地ニ遊ヒ吉林地方ヨリ魯國ノ界境ニ到リ亦馬賊ノ情勢ヲ探偵シ四五日前ニ茲ニ來着シタル者」だった。また曾根は「佛國敎師『ボヲィァ』氏」から目的地の1つである盛京(奉天)地方の事情を聴き取ると同時に、奉天で神父をしている友人を紹介されている。

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