イエメンへの軍事介入におけるサウジとUAEの足並みの乱れが、南部アデンに仮の政府を置いてきたハーディー政権と南部分離派との間の衝突に至ったことを記しておいたが、サウジとUAEは今でこそGCCの中でも主要な同盟国として一体化を進めているように見えるが、歴史的にはかなりかけ離れた勢力である。

特にイエメンに関していえば、UAEがサウジを差し置いて南部分離派に肩入れすることは、100年前の地図を見れば当然のようにも見える。

オスマン帝国の末期1914年の地図では、イエメン北部はオスマン帝国の州であるのに対して、イエメン南部、UAEからオマーンを経てアデンに至るアラビア半島のインド洋沿岸からペルシア湾岸にかけての地域は、諸首長が掌握する地域として描かれている。紅海沿岸地域はオスマン帝国が、インド洋沿岸地域は英国が、それぞれ植民地的な進出を進めていった。1960年代から70年代にかけて独立していった、インド洋からペルシア湾にかけての旧英国植民地あるいは保護国には、様々な類似性があると共に、歴史の展開次第では一つの国になる可能性すらあった。

「アラブ首長国連邦」は、カタールからオマーン、イエメン南部まで含むものであってもおかしくはない。サウジアラビアが主導するGCCという構図は、自明のものではない。サウジがもたつけば、UAEは独自に地域の軍事大国として台頭することもありうる。

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