太宰府天満宮。右奥に「あるじを追って一夜で飛んできた」と伝えられる「飛梅」がある(筆者撮影)

 

 寒さに耐えて咲く梅をみるたびに、菅原道真を思い出す。

 延喜元年(901)、菅原道真は大宰府へ左遷され、あの有名な歌を詠んだ。

 

東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな

 

 実際には左遷などという生やさしい話ではなく、流刑に等しかった。大宰府に近い榎寺(えのきでら、浄妙院)に軟禁され、体を壊し、延喜3年(903)2月に亡くなる。獄死と言っていい。また4人の息子は、土佐、駿河、飛騨、播磨に送られ、幽閉された。

 菅原道真、いったい何をやらかしたのか。

「改革者」の悲運

 菅原氏の祖は土師(はじ)氏で、さらに根っこを辿っていくと、出雲神話に登場する天穂日命(あまのほひのみこと)に行き着く。要は、出雲国造家の親族だ。土師氏は、ヤマトで古墳の造営や葬送儀礼に携わり、平安時代の菅原氏は、学者の道を歩んでいた。菅原道真も学究肌の役人だったが、ひょんなきっかけで大出世を果たす。反藤原派の宇多天皇に見出されたのだ。

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