戦時共産主義と食糧独裁体制

執筆者:野口悠紀雄2018年3月1日
(C)AFP=時事

 

 革命後の1918年、春から初夏にかけて深刻な食糧危機がロシアを襲った。革命政権は、その原因は、富裕になった農民が穀物を隠匿していることだとして、それを強制的に没取する政策を取った。

 余剰穀物供出義務を定め、食糧人民委員に非常大権を与える「食糧独裁令」を5月に制定した。これが、悪名高き「食糧独裁体制」である。

 これを実施するため、農村に貧農委員会が設立され、何千もの「食糧徴発隊」が作られた。その任務は、農民から「余剰」穀物を強制的に没収することであった。

 簡単に言えば、物々交換をしようとしても農民が応じなくなったので、暴力で奪おうということだ。

 武装した労働者の食糧徴発隊が農村に送り込まれた。これに対して、社会革命党(エスエル)左派は、「農民と労働者が戦うことになる」と反対し、激烈な反対闘争が起こった(社会革命党とは、ボリシェビキ、メンシェビキとともに革命をリードした政党。農村を基盤としていた)。

 1918年末までに7万2000人の徴発隊が農村に送られたが、その一割は農民に殺されたとされる。

 他方で、多くの農民が、労働者階級の敵である「富農(クラーク)」との烙印を押され、チェカによって逮捕されて、シベリアに送られた。チェカ(あるいは、チェーカー)とは、「反革命・サボタージュおよび投機取り締まり全ロシア非常委員会」のことである。議長はフェリックス・ジェルジンスキー。後に、GPU (ゲーペーウー=国家政治保安部)に改組された。

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