1958年、来日したイランのパーレヴィ「国王」(左から2人目。左端=昭和天皇、右端=今上陛下)。「皇帝」と呼ばれるべきだったが (C)時事

 

 前回のしめくくりに「世界史」とは言ってみたものの、それは東洋と西洋、東アジアとヨーロッパばかりではない。そのはざまには、中央アジア・西アジア、あるいは中央ユーラシアという広大な世界が横たわっている。とても黙過できるスケールではない。そこでここからは、浅学菲才の辯明(いいわけ)になる。

 歴史を遡っていけば、東に中華文明が成立し、西にギリシア・ローマ文明が栄えるはるか以前に、人類最初の文明がはじまった。現在のいわゆる中東、オリエントの地においてである。

 小さな都市国家が興亡し、次第にその規模をひろげ、やがて史上初の大帝国ができあがった。アケメネス朝ペルシア帝国である。

 このペルシアのつくりあげた体制が、以後の世界に範を垂れた。アケメネス朝を滅ぼしたマケドニアのアレクサンドロスは、まったくその規模を踏襲したし、西で地中海を制したローマ帝国も、東で黄河流域の中原を統一した秦漢王朝も、ペルシアをはるかに承け継いだ存在である。ペルシア自体の遺領は、イスラーム圏となっていよいよ拡大した。したがって君主制・君主号と言うなら、まずオリエント・ペルシアを問題にするのが、歴史的にしかるべき順序になる。

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