灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(3)

執筆者:佐野美和2018年7月16日
まだ髷を結っていた頃の藤原あき。正確な撮影年は不詳。この後、あきは波瀾万丈の人生を送ることになる(自伝『雨だれのうた』(酣燈社)より)

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 昭和57(1982)年、東京が最も寒くなる季節の2月8日午前3時半前、その惨劇は起きた。

 新聞テレビの報道記者たちは本社からの「ホテルニュージャパン火災」の一報で叩き起こされ、それぞれの自宅から駆け付けた。タクシーで赤坂見附まで向かう途中、国道246号の青山一丁目あたりから高く上がる炎と黒煙が見てとれる。外堀通りの現場付近はすでに警視庁により封鎖されており、100メートルほど手前から走って近づくと、無数の消防車や救急車の塊の脇に並べて横たえられたいくつかの遺体が目に入る。煙の猛追に逃げ場がなく、窓から飛び降りた人たちだった。

 高度成長期の赤坂を牽引し、繁栄の象徴でもあったホテルが真っ赤に燃え上がって焼け落ちている。

 上層階に炎と黒煙が高く吹き上がる中、逃げ場を失った宿泊客が寝間着のまま窓の外枠のわずかな縁に身を預け、壁を伝わる必死の姿を消防車のハシゴが助けようとする。それをテレビカメラが追い、遺体が横たわるアスファルトの上から中継をした。玄関前に高く掲げられている日本国旗とホテルの社旗が、強風に煽られて寒々しくなびいていた。

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