共存から「混一」へ

執筆者:岡本隆司2018年7月21日
唐の玄宗。その治世の後半、安史の乱のあたりから統合がやぶれ、再び長い混乱の時代に突入する

 

 唐の統合がやぶれると、東アジアは解体の一途をたどってゆく。東アジアも中国も、また華北・中原そのものが、かねてより多種族のるつぼであり、唐の「天下」統一がむなしく終わったのも、そんな多元性が高まってきたからである。

東アジアの解体

 これを君主号という視座から見てみると、皇帝=天子は紀元前・漢の時代、漢人土俗の儒教と結合してできた概念にすぎない。いかにユニヴァーサルな存在だといっても、漢人にしか通用しない皇帝=「天子」では、胡漢・華夷から成る「天下」を治めきれなくなっていた。

 そこで、東アジア全域に通じる君主のフォーマットが、新たに必要になる。中国在来の基本構造の上に、遊牧国家の慣例あるいは外来イデオロギーの仏教というコンテンツを加える試みは、そうしたフォーマットを構築しようとしたものだった。

 それを実演して見せたのが、隋唐という政権である。試行錯誤のあげく、最終的に挫折した。2つほど、見ておきたい。

 まずイデオロギー・普遍性の問題である。たとえば隋唐と同じ時期、西方ではイスラームが発祥し、オリエント・地中海を席巻し、やはり大統合をなしとげた。そして以後、そのイスラームが体制化・社会化して、広域を覆う普遍性をそなえるに至る。それと比較すれば、中国の儒教はもちろん、ユーラシア東半にひろがる仏教も、そこまでの普遍性をもちえなかった。隋唐の統一政権が不安定だったゆえんである。

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