灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(4)

執筆者:佐野美和2018年7月29日
まだ髷を結っていた頃の藤原あき。正確な撮影年は不詳。この後、あきは波瀾万丈の人生を送ることになる(自伝『雨だれのうた』(酣燈社)より)

 

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 藤原あきが明治の時代に皇族や旧大名一家の娘たちと肩を並べて、いや、それ以上の教育を受け物質的にも豊かな暮らしがなぜ出来たのであろう。

 それには、父親の中上川(なかみがわ)彦次郎について知る必要がある。

 彦次郎は嘉永7(1854)年、中津藩の金谷森ノ町に豊前国(大分県)中津藩藩士・中上川才蔵の長男として生を受ける。母親は福澤諭吉の姉・婉(えん)だ。

 父の才蔵は十万石大名の奥平家に仕え、中津藩士の給与となる米を管理し、大阪方面に売る米の出納係をしていた。

 平屋建てわらぶき屋根の部屋が4つに、座敷、寝間、食事部屋、炊事場と便所の武家屋敷。便所に並ぶように、庭には鳩の2階建ての小屋がある。これは鳩のフンから染料剤ができるということで売りにだして副収入としていた。他にも、広くもない敷地の庭に菜園を作り家計の足しにする。そして、庭に落ちてくる隣の家の柿の木の落ち葉もむだにすまいと、煮炊きの火付けに使う。才蔵は日々の生活に倹約を心がけ、せっせと貯金をした。

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