華夷秩序の天下
2018年8月4日

天下を「混一」した、元のクビライ。だがモンゴルはまた解体し、多元化が進んでいく
モンゴル時代の「混一」ということばは、象徴的である。字面だけでも、多くのものが「混」ざった、「混」在しているイメージを抱く。実際もそのとおりだった。13世紀後半、現実の「天下」では、世界の各地で開発がすすみ、地域の個性が増し、多元性はいよいよ高まっていたのである。
天下の「混一」と君主号
そうした各地の多様な個性を生かしながらも、それを深刻な相剋騒乱に転化させない。多元性を秩序づけ、互いを有機的に結びつけることが、モンゴル帝国の歴史的な使命だった。

地図(1)1300年前後のモンゴル帝国 出典)本田實信『モンゴル時代史研究』(東京大学出版会、1991年)
そのため拡大を終え、安定したモンゴル帝国は、ゆるやかな連邦制のような相貌を呈した。かつてわれわれの世代が中学高校で習ったのは、チンギス以来1つにまとまっていた帝国は、4汗(カン)国が自立して「分裂」したという史実経過である。それは誤った見方だと指摘されて、すでに久しい。
君主号でそこを確認しておこう。盟主のカーンが最高の地位を保持し、その下にそれぞれの国(ウルス)の君主・カンがいる、という構図である。地図(1)(2)をみると、そのカーンを兼ねるのは、東方で発祥地のモンゴル高原を有する「大元ウルス」の君主であり、西方の諸ウルスの君主であるカンに君臨する、というありようだった。
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