清朝の形成と「皇帝」号

執筆者:岡本隆司2018年8月18日
ル・コントの著書Nouveaux memoires sur l’état présent de la Chine(1696年)に載った康熙帝の肖像

 

 明朝辺境の内外を問わない「華」「夷」一体のコミュニティは、単なる武装商業集団にとどまらない。それが一大勢力となって、やがて政権を樹立する場合もあった。それが次代の歴史を動かす原動力になる。

 海上・海岸線でいえば、鄭氏政権がアモイ・台湾に勢力を張った。日本でも「国性爺合戦」の戯曲でおなじみの鄭成功とその子孫である。かれらは当初、日中またにかけた海商・海賊集団、鄭成功自身も日中の混血だったから、いわゆる「倭寇」のなれの果てだといってよい。

多元化の天下

 海上に「南倭」がいれば、「北虜」も当然、陸上に存在した。満洲人を中心にモンゴル人・漢人が結集した清朝である。満洲人はもともと遼東地域の狩猟民で、南に明朝治下の漢人農耕民、西に草原のモンゴル遊牧民と隣接して暮らしていた。商業ブームの到来とともに、武装商業集団として活動するようになり、17世紀のはじめ、軍事政権として興起する。

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