灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(6)

執筆者:佐野美和2018年8月26日
まだ髷を結っていた頃の藤原あき。正確な撮影年は不詳。この後、あきは波瀾万丈の人生を送ることになる(自伝『雨だれのうた』(酣燈社)より)

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 夢をもって誰もが新たな一歩を踏み出そうとするが、その現実は自分の描く青写真とは大きくかけ離れる。

 最終的に「東洋一の給与とり」と世間にいわしめたほどの中上川彦次郎とて、夢の一歩の現実は厳しいものだった。

 「天下国家を論じる新聞社の社長として、自分が国を動かしている気にもなったこともあるが、34歳の自分にはいったい何ができるのか」

 発行部数を増やし広告収入も伸びている『時事新報』の社長を辞めることを決めて、彦次郎がみずから選んだ道は実業の世界だった。

 中津藩・慶應義塾の先輩で、サンフランシスコで雑貨商をいとなむ甲斐織衛と、共同で貿易会社を立ち上げる企画をたてた。

 資本金にまず自分の貯金をあてがい、あとは叔父の福澤諭吉に出資してもらう算段でいた。

 しかし計画途中、企画に不安を感じた諭吉が「資本は一文も出さぬ」と言いだし、なんども話し合いをもったが、首をたてにはふってくれなかった。

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