「皇帝」号の定着と東西の翻訳概念

執筆者:岡本隆司2018年9月1日
清朝代々の「皇帝」が過ごした北京・紫禁城(故宮)(C)EPA=時事

 

 イエズス会士たちが呼ぶ「タルタリー(ないしタタール)」とは、広義には万里の長城以北、漢語で「塞外」と呼ぶ空間を指して呼ぶ表現で、ル・コントもほぼその用法に従っている。そこに暮らす人々は、具体的にはモンゴル人・満洲人にひとしい。ここで「東タルタリー」というのは、東三省から現在の内蒙古・モンゴル国におよぶ範囲にあたる。ジュンガールなどトルキスタンにひろがる西方のモンゴルは、この時まだ清朝に帰服していなかった。

「中国」と皇帝と清朝

 ともかくブーヴェにしてもル・コントにしても、「中国(la Chine)」=漢人Chinoisと「タルタリー(la Tartarie)」=満洲人・モンゴル人Tartaresとを明確に区別して、その「二国民(deux Nations)」をあわせ統治するユニヴァーサルな存在として、康煕帝ないし清朝の君主「皇帝」をEmpereurと訳したのである。この点、漢語の「皇帝」は「王国」の「国王」だった明末のリッチとは、大きな変化である。

 その「中国」を王国と称する言い回しは、以後もつづく。たとえばル・コントは、中国la Chineを説明して“Royaume du Milieu(中央の王国)”といって、リッチと同じ表現である。英語でいえば、Middle Kingdomとなろうか。もっとも、これはそう通称する1地域というだけで、別に世界の「中央」・中心だと定義づけているわけではない。

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