灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(7)

執筆者:佐野美和2018年9月6日
まだ髷を結っていた頃の藤原あき。正確な撮影年は不詳。この後、あきは波瀾万丈の人生を送ることになる(自伝『雨だれのうた』(酣燈社)より)

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「サラリーマンの大恩人」「ホワイトカラーの元祖」とも言われた藤原あきの父・中上川彦次郎。彼の人生で最後の仕事となる三井銀行のトップとしての実績がのちにそう言わせることとなる。

 今、日本人の働き方の中では、正規雇用の会社員「サラリーマン」と呼ばれる人たちがもっとも多く占めているが、150年以上前、明治維新前の日本では「士農工商」という身分の違いや「工商」の種類は数多あったが、「会社員」という職制はむろん、「会社」という概念自体がまだない。幕末、坂本龍馬が長崎で立ち上げた「亀山社中」(後の海援隊)がその形態、精神から日本最初の「株式会社(カンパニー)」と目されていることは広く知られている。

 まだ年端もいかない少年のころから商家に住み込みで働く丁稚奉公。しかし丁稚の場合、住み込みで食事や身の周りの細かい物は支給される代わりに、支払われる報酬はごくわずか、払われない場合も普通だった。

 丁稚は、奉公をかさね、手代から番頭になるのが出世コースだ。そして商家の暖簾分けで独立するという花道もある。 

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