灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(8)

執筆者:佐野美和2018年9月9日
まだ髷を結っていた頃の藤原あき。正確な撮影年は不詳。この後、あきは波瀾万丈の人生を送ることになる(自伝『雨だれのうた』(酣燈社)より)

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 学習院女学部の上級となった中上川あきは、膨らみをおびてきた胸とは裏腹に着物の上からもまだ少女らしい華奢な体つきがわかる。

 背が高く大人びた目鼻立ち、常に堂々とした物腰は、校内でもかなり目立つ存在だった。先生が黒板に書く問題もすらすらと解いてしまい、級友たちが頭をひねり考えているのを尻目に、「中上川さんもう出来たかね?」と帳面を見にきた先生とたわいもない話をする。

 仲の良い女学生同士が休み時間に校庭をそぞろ歩きしながら、将来の夢を語る時間を、あきと一緒に共有したいと思う下級生もたくさんいた。

 そんなある日、『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)が「未来の社交界の花形」という題名で、学習院女学部の才色をそなえた令嬢を紹介した。

 島津公爵令嬢、小笠原伯爵令嬢、岩倉侯爵令嬢、徳川公爵令嬢、そして中上川あき。皇族や華族の令嬢の名前が挙げられる中、実業家の令嬢といってもその父はとっくに他界し、しかも妾腹のあきが「社交界の花形」として華々しくとりあげられるのは意外なことで、父兄達の話題となった。

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