灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(14)

執筆者:佐野美和2018年10月21日
まだ髷を結っていた頃の藤原あき。正確な撮影年は不詳。この後、あきは波瀾万丈の人生を送ることになる(自伝『雨だれのうた』(酣燈社)より)

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 いつかはどこか正式な場でめぐり会えるのではないか。

 あきがかすかな予感を心の隅でしていたように、出会いの招待状が舞い込んできた。学習院の同級生だった黒田清伯爵の妹に誘われ、大使館からの招待状を手にとって見た時は衝撃的だった。

「特別主賓・藤原義江」とあるではないか。あきの中で運命の銅鑼が鳴り響いた。

 帝国ホテルのライト館グリルでもよおされる、日本で初めてのベルギー大使であるアルベール・ド・バッソンピエール主催のダンスパーティーの招待状だった。

「我らのテナー」と呼ばれる藤原義江は、帰朝しセンセーショナルなデビューを飾っていた。4月下旬の帰朝記念独唱会を神田のYMCAにて大成功させると、続けて大阪や地方の主要都市でも開催。新聞や婦人雑誌はこぞって義江を取り上げ、時代の寵児となっていた。

 駐英日本大使館の吉田茂外交官や英国で暮らしている日本の伯爵たちのお墨付きをもらい帰国した義江には、独唱会や新聞・雑誌などの露出の他に、上流社会との「社交」という大切な仕事があった。様々な場所にも引っ張りだこで、その1つにベルギー大使主催の会があり、義江の独唱も披露されることになった。

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