灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(15)

執筆者:佐野美和2018年10月28日

第2章 我らのテナー

若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供)

     49

 藤原義江は晩年に、

「自分の人生を振り返ると、恋愛と借金を繰り返し、その間歌も歌った。この一行が僕の人生だった」

 と書いたことがある。

「我らのテナー」と呼ばれ日本中を席巻し、日本と外国を行き来しながら歌を唄い、観客の胸に突き刺さるステージを数々開いた。日本の社交界の中でも中心的な存在で、義江がその場にいるだけで会の格式が上がり華やいだ。日本で初めて本格的なオペラを上演するための「藤原歌劇団」を設立し、生涯、本格的オペラの普及に努めた。

 帝国ホテルに住まい、その生き方は多くの人から羨望された。

 死後何年たっても方々で語り継がれる「藤原義江」は、輝かしい表舞台とは裏腹に、複雑に入り込む「女性関係」と、「お金」に悩む人生でもあった。

 自伝などでは、自らの出生を雄弁に語っているが、実際の対面では過去を振り返り語ることは一切しなかったという義江の出生から紐解いていこう。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。