灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(17)

執筆者:佐野美和2018年11月11日
若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供)

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 時は明治36(1903)年、大分の杵築にある料亭「旭楼」は、折に沸く石炭景気で「第五旭楼」までできる盛況ぶりだった。縁起を担ぎ、3番目の支店の次は第5店と呼んだ。夕方ともなると、髪結いから高島田に結い着飾った芸者たちが出てきて、通りは華やかな雰囲気となり、びんつけ油の甘い香りが広がる。

 その旭楼(本店)に住んでいると言う「幼いあいのこの義江」は名物となり、遠方からもこの花街に、手土産などを持ってやってくる客もいる。

「幼い子供を商売の道具に使うなど何事だ」

 と、近所の顔役の水野という男は座敷に居た義江を連れ出してしまった。

 水野松次郎は、杵築で鉄工所を営んでいるが、景気の良さに乗り大分でも初の自転車屋も始めたばかりだった。

 自転車は、この頃最新の機械であり、乗っている人は大変な注目を受けた。

 東京では、この最先端の機械で颯爽と移動する若い女性の姿が話題をふりまいていた。

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