灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(19)

執筆者:佐野美和2018年11月25日
若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供)

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 九州、大分県の北東部に位置する国東半島は瀬戸内海に面し、比較的穏やかな気候が続く。その国東半島の南側にある杵築は、明治の半ばになっても杵築城を中心とした城下町の賑わいがあいも変わらず、北九州の石炭や鉄鋼の好景気によって人の出入りも多く、むしろ花街はおおいに盛っていた。

 花街が賑わうと杵築の名産イグサを主とする畳替えも頻繁に行われ、町の景気は好循環していった。

 明治39(1906)年、寺を放逐された義江は、杵築の町中で鍛冶屋から身を起こして手広い鉄工所となった水野松次郎・ヨネ夫妻の養子となった。夫妻は子宝に恵まれていなかった。

「義江、今日からうちの子ばい」

 義江のくりくり坊主の頭を両手で抱え込むようにしながら、水野は言う。

 もともと子供好きな上に、旭楼では子供ながらに座敷に出るという境遇を心配し、寺に入れたものの追い返された義江が不憫で、また可愛くて仕方なかった。

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