灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(20)

執筆者:佐野美和2018年12月2日
若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供)

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 明治38(1905)年に、あと取りとして義江を自分の養子にまでした水野松次郎だったが、妻が「義江とは暮らせない。私が出て行く」と怒り心頭に言えば、義江を出すという選択肢しか考えられなかった。

 水野は自分を責めながら考えた。

「これが血のつながった親子だったら、どうなのか。義江が手を付けられない子供だとしても、出ていけという決断にはならないのではないか」

 旭楼から寺の小僧に行かせたり、自分の養子にしたことがすべて間違っていたのか。1人の少年を結果として翻弄させてしまったことに、自分を責めた。

 杵築の旭楼の近くの上町にある金光教の教会で、水野と旭楼の主人藤原徳三郎、教会の阿部官二も交えて義江の今後についてなんども話し合いを重ねた。

 ある日義江は3人の大人に囲まれ、

「な、義、お母ちゃんに逢いたいだろ?」

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