嫌われる皇帝

執筆者:岡本隆司2018年12月8日
1897年、在位60年を迎えたイギリスの「女王」にしてインド「皇帝」ヴィクトリア

 

 イングランドは確かに、突出して特異である。しかしそれは当初、必ずしも強盛を保証しなかった。15世紀の半ばにフランスとの百年戦争に敗れ、まもなくイングランド自体の王位を争奪するバラ戦争も起こっては、衰えは隠せない。「帝国」に君臨し、「フランス王」を併称した君主号とは裏腹に、16世紀のイングランドは、なお弱小国でしかなかった。当のフランス国王もハプスブルク皇帝も、歯牙にもかけていない。小国イングランドの大陸に対するコンプレックスは、なお長く続く。

イギリス「王国」の勝利

 そもそも大陸どころではない。イングランド・スコットランド・アイルランドの3王国は、17世紀がおわるまで、いわば内戦をくりかえしていた。国教会の設立にみられる宗教事情と王位継承が交錯して、しばしば君主と議会が衝突したのである。まさに「内戦」というにふさわしい清教徒革命も、アイルランドで流血のおびただしかった「名誉」革命も、そうであった。

 後者はジェームズ2世がカトリックを復活させ、宗教上の騒乱をもたらしかねなかったため、議会が1688年末、君主を排除した事件である。新たなイングランド王として、オランダからジェームズ2世の娘メアリとその夫オラニエ公ウィレムを招聘した。これによって、カトリックから脱却し、宗教的対立を解消し、「議会の中の国王」(キング・イン・パーラメント)の国制を確立して、「内戦」に終止符を打ったのである。18世紀のはじめには、スコットランドとの合邦を実現して、グレート・ブリテン連合王国が発足した。いわゆるイギリスの出発である。

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