灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(21)

執筆者:佐野美和2018年12月9日
若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供)

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 小学校には通わせてもらえず、母の菊と北新地で生活をする義江だが、この生活も長くは続かなかった。

 ある時、梅田駅近くで畳屋をしている菊の兄の松之助がやってきた。菊となにやら話をして、義江はその晩から松之助の家に引きとられることになった。

 女の一人身で我が子に出て行ってほしいとくれば、男が絡んでいることがほとんどかもしれない。

 それが菊の琵琶芸者としての飛躍のための踏台なのか、身も心も溺れてしまったのかはわからないが、その浪曲師だという男は義江が居る時も度々出入りしていた。

 伯父の松之助夫妻の家も貧しかった。畳屋というのは名ばかりで、いつも開店休業の状態だった。子供の義江の目から見ても松之助はいかにも遊び人風の着流しで、危うさのある人物だった。

 松之助は義江を小学校に行かせようなどとは考えず、働かせて少しでも家計の足しにすることを考えた。

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