灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(22)

執筆者:佐野美和2018年12月16日
若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供、以下同)

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 梅田から乗った汽車が淀橋の鉄橋にかかると、すぐに義江はハーモニカの箱を手にとって開けてみた。

「かなしくなったらこれをふきなさい」とおかみさんの下手な字が書いてある。義江は以前から欲しかったハーモニカが手に入った事で、天にも昇る気持だった。しかも新しい着物を着て、大好きな汽車に乗っている。

 自分が乗って走っている汽車を見たい一心でカーブにかかる度に窓を開けて、半身をのり出して眺めた。

「危ないし、風が入るから閉めなさい」と、乗客の老人に叱られた。

 それからは窓におでこを付けて、暮れていく空を眺め続けた。

 尾道の辺りにきた時には夜もすっかり更けて、月明かりが海を銀色に照らしていた。窓にしがみつき、興奮して眠れなかった。

 隣の席に座った若い陸軍の軍人が、何かと義江の世話をしてくれた。おせんべいやお弁当まで買って与えてくれた。一人旅のわけを義江が話すと若い軍人は、

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