灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(23)
2018年12月23日

若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供、以下同)
北新地の花街で琵琶芸者として働く母・菊から「義江は、お父さんのところへ行けば幸せになれる」と言われ下関まで行った。しかし、伝書鳩のように母への手紙を預かり帰されてしまった義江は、1人汽車に乗って眠っていたところに「大阪が燃えている」という声で目が覚めた。
姫路に汽車が停車すると、プラットホームにあふれる大勢の人たちが、車内になだれ込んできた。義江が乗った2等車にも人が乗り込んできた。
「何しろ昨夜から焼け通しですから」
「この風では火の手は上がるばかりや。曽根崎あたりは一面灰ですわ」
乗客たちは次々に不安を口にする。
列車はゆっくりと進行したが、もう少しで大阪駅という淀川の鉄橋の上で止まってしまい、それから全く動かなくなってしまった。
窓から乗り出して見てみると、橋の前方には前の汽車が止まっている。業を煮やした乗客は窓から橋に降り、線路を伝い一目散に散ってゆく。
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