
北新地の花街で琵琶芸者として働く母・菊から「義江は、お父さんのところへ行けば幸せになれる」と言われ下関まで行った。しかし、伝書鳩のように母への手紙を預かり帰されてしまった義江は、1人汽車に乗って眠っていたところに「大阪が燃えている」という声で目が覚めた。
姫路に汽車が停車すると、プラットホームにあふれる大勢の人たちが、車内になだれ込んできた。義江が乗った2等車にも人が乗り込んできた。
「何しろ昨夜から焼け通しですから」
「この風では火の手は上がるばかりや。曽根崎あたりは一面灰ですわ」
乗客たちは次々に不安を口にする。
列車はゆっくりと進行したが、もう少しで大阪駅という淀川の鉄橋の上で止まってしまい、それから全く動かなくなってしまった。
窓から乗り出して見てみると、橋の前方には前の汽車が止まっている。業を煮やした乗客は窓から橋に降り、線路を伝い一目散に散ってゆく。
「家族が天満にいるんや!」
火事で家が心配な者たちは血相を変えている。大きな声で車掌を罵倒する者もいる。
大人たちの動向をなすすべなく見ていた義江は、2等車の席に座ったままだった。のろのろと汽車が走りだしまた止まりの繰り返しでどれくらいの時間がすぎただろう、ようやく大阪駅に汽車は到着した。
「ついてこい」
という仲仕(荷物を運ぶ労働者)風の男に手招きされて、ホームに出ると、そこは人であふれかえっていた。包帯をして泣いている女の子や、兵隊が人をかき分け「どけどけ」と走っていったり、まるで戦場だった。
義江は、仲仕風の男と汽車を降りた反対側の線路に降りてまた違うホームに上がったりして、駅員室に連れて行かれた。仲仕風の男は義江を引き渡すといなくなってしまった。
義江が父親から貰った手紙を車掌に見せると、
「……かわいそうだが、もう一度下関に行ったほうがいい。駅の外にはでられへん。もう大阪にはおられへん」
待合室で、何も食べられず空腹の中、半べそをかいてすごした。
その晩おそくなってから、また下関行の汽車に乗せられた。
義江が車掌の判断で下関の汽車に再び乗せられたのは、北の大火が原因だった。

人々がのちにそのことを語る時、「天満焼き」とも言われた大阪の歴史的な大火事である。
明治42(1909)年7月31日午前4時20分、北区空心町のメリヤス製造者の自宅から出火した。
ランプの油壷に火が入りガラス壷が破裂したことが原因だ。
この日は未明から東風が強く、火はまたたく間に燃え広がった。西へ西へと火が広がり、水での消火技術は低いので、火が移りそうな建物を倒壊して火を防ぐ方法がとられた。焼失戸数1万1356戸、被災地面積1.2キロ平方メートル。鎮火は8月1日の午前4時。大阪の北はほぼ全域が壊滅してしまった。
そして、亡くなったほとんどが花街の芸者だったという。
母や、祖父母や伯父や伯母は大丈夫なのであろうかと、義江は心配になってきた。
この歴史的な大火は、義江と母につながる細い糸まで切ってしまうのか。
67
2日のうちに3度目の汽車に乗った義江は、最初の高揚した気持は失せて、空腹と、いったいどこに落ち着くことができるのかという不安におそわれながら、ハーモニカを吹いた。大阪から下関間は25時間の長旅である。
下関駅に降りた義江は、瓜生商会への道順をおぼえていて、自分の足で行くことが出来た。
給仕や会社の人たちは、義江を見ておどろいた。
「どうしてまた来たの? 大阪に帰ったのでは?」
昨日と同じように長い時間待たされた。
大分時間が経過し取締役の有山という男が義江に対応した。
「ミスターリードは今日会社に来ませんから、うちへ来なさい」
義江は有山家で生活をすることになった。有山家の長男で小一郎という歳の近い男子がいて、瞬く間に意気投合して遊びに興じた。
しかし小一郎は朝から学校に行くので義江は1人で遊びに行くようになった。
犬と一緒に裏の小山にかけ上がり、たわむれたり、竹竿でのろまな鳥をつついたりする。
ある日、小一郎が学校に出かけ、義江が犬と山に行こうとして裏門を出ると、表通りから音楽が聞こえた。太鼓とラッパ。義江は表に走っていった。犬も興奮したように義江を追い抜いて走っていく。
海岸通りの活動写真館の宣伝の楽隊だった。活動写真館の名前が入ったのぼりをかかげ半纏を着た男たちの後に、楽団がついて行く。
『勇敢なる水平』を演奏していて、「煙も見えず雲もなく」と楽団の1人が唄っている。初めてまじかで聞く生の演奏に、義江はしびれてしまった。
その夜は、小一郎との遊びもなぜか楽しくなく、楽隊のことばかりが思い出された。
それからの義江は、毎朝楽隊が通る時間に表通りに出て、楽隊について行くようになった。活動写真館への入場切符もらえるような間柄になった。
楽隊の一番最後を歩き、楽団の一員になった様に口笛を吹いた。
家に帰っても口笛の練習に余念がなく、強弱をつけて楽隊の奏でる音をまねるのに余念がなかった。そして練習を重ね、口笛でラッパの音を再現するという技もあみ出して、得意になって有山家で披露した。
そんな生活が1カ月も続いた頃であろうか。
義江はよそ行きの着物に着かえさせられて、父親のリードに会いに行くことを告げられた。
亀山神社の下から、坂を上っていった。すると大きな西洋館がある庭園へと連れて行かれた。
お手伝いさんに案内されて玄関すぐの階段で2階に案内されると、関門海峡が見渡せた。
下関随一の眺望を誇る春帆楼とつながる丘にある家だ。
ホーム・リンガー社が下関支社長の住まいとして確保している社宅だった。
この家は、義江が亡くなった後の1982年から「藤原義江記念館」として現在も開かれている。別名「紅葉館」「リード邸」などと呼ばれている。
人生何が起こるかわからない。ここが自分の記念館になるとは、この時の義江少年はもちろん予想などできない。

父・リードの居るリヴィングルームのベランダには関門海峡が広がり船が往来している。ベランダには大きな望遠鏡が2つ、大砲のように門司側にむけられていた。
リードと有山氏の英語での会話が長くあったが、義江には内容が分からない。
リードはかなりの酒豪だった。会社以外ではいつもウィスキーのコップを片手にしている。コックの村田老人が何本もの洋酒をワゴンで運んでくると、
「ノメマスカ?」
とリードは義江に聞いた。不意の問いかけに義江がもじもじしていると、有山氏は笑いながら、
「これは甘い葡萄酒だから少しなら大丈夫。あがってごらんなさい」
のちにワイン好きとなる義江の初めての葡萄酒体験だった。
コックの村田老人が、
「若様、いける口ですね」
と笑顔を浮かべる。義江は「若様」と言ってくれるコックの村田が大好きだった。
リードと有山はウィスキーを丸く寸胴のガラスコップにつぎ、2人ともちょっと拍子をとって、コップを鼻の先まで持ち上げ、ぐいと勢いよく飲む。
これが洋酒の飲み方なのだと、義江は大人の酒の習慣をかっこいいと思った。
その日の夕食は、リード、義江、有山で近くの山陽ホテルのレストランでとった。
のちに日本をはじめヨーロッパの美味しいものを食べ続けた義江の、生まれて初めての国際レベルのレストランだった。
はじめは濃い味付けに驚いたが、すぐに舌は慣れた。
空腹が十分に満たされた。
様々な大きさの銀のナイフとフォークを使い、時おり陶器がふれあう音や、酒や水をコップにつぐ音が聞こえるレストランという場所が心地よく感じた。
つい数カ月前まで、麦飯を水でといて口に流し込んでいた自分のことなどはすっかり忘れてしまい、大人の仲間入りができたような気分になった。
下関駅前にある山陽ホテルは、明治35(1902)年に山陽鉄道が開業したという、鉄道会社初のホテルだ。国際都市下関を象徴する重厚なホテルである。
山陽鉄道は、こののち成人した義江と深い縁となるあきの父親・中上川彦次郎が社長をしていた鉄道会社だ。
この頃すでに彦次郎は他界していたが、ホテルの企画立案の最終判断をしたのは、彦次郎の万年筆のサインだったかもしれない。
「やはり義江は、リード様のご子息なのではないでしょうか。とても利発でいい子ですよ、少々乱暴ですが……」
などと有山がリードにいろいろ話しをする。
日に日に子供から大人びた顔つきになる義江に、自分の面影を見たからかもしれない。
その日を境にリードが有山家に来たり、義江が父の家に行ったりと、日がたつにつれ父から愛されているということを義江は実感するようになった。
季節が秋になるとリードは有山に、
「日本で最も教育レベルの高い学校に義江を入れて欲しい」
と頼んだ。
最終的に「学習院」か「暁星学園」かという2つに絞られ、暁星の方に手続きがとられた。明治21(1888)年、フランスの宣教師らによって開学された暁星は外国人の子供が多いということが、決め手になった。今までの義江の素行不良の原因は「混血だ」「あいの子だ」などとののしられたことに端を発していることは大人たちも十分理解していたので、西洋人の生徒も在籍する「私立暁星学校」に決めた。
わずか数カ月だが、大切にされて思いきり遊ぶことのできた下関のよい思い出が義江には残った。楽隊について行き、夕方まで帰らず心配させたことは悪いと思っている。
上京の日がせまると呉服屋が新しい着物や袴などを持ってきて、義江の学校入学の準備が整えられていった。
明治42(1909)年晩秋のある日、義江は1人汽車に乗った。
大阪から下関は3度1人で汽車に乗ったが、今度のような長い旅は初めてのことだった。しかし義江には少しの不安もなかった。お金も地位も持っている父親が後ろ盾してくれているということは、ある程度の保障がされたものだと義江はぼんやりと思った。
大阪で乗り換えた時、母を思い出した。大阪の大火からどうなったのかも、知らない。義江からそのことを大人たちに聞いた事は一度もない。
汽車の中では、生まれて初めて富士山というものを見たいと待ち望んだが、浜名湖あたりから雲が深く、その姿は影も形もなかった。
新橋駅に着いた。
義江の東京での身元引受人、瓜生家の人たちが迎えにきてくれた。
瓜生家は父リードが支店長をつとめる「瓜生商会」の社長を引退した瓜生寅(うりゅうはじむ)の東京の家だ。
義江は初めて見る東京が物珍しく、興奮した気持で淀橋(新宿)にある瓜生家に一旦落ち着いた。
途中に寄った銀座では、車輪がついている電車が街中を走っているのと、大量に建つ電信柱に驚いた。
11歳の義江は麹町区富士見町の暁星学校の小学部の寄宿舎に入った。
敷地内にある寄宿舎は、ヨーロッパ風の建物で上が聖堂になっている。カトリック系の男子校で、小学校のことは「プティ」と呼んだ。プティなどという言葉は今まで発したことのない発音で、見た目は西洋人でも日本のガキ大将の義江は気恥かしくて面食らってしまった。
朝はフランス式の食事、みごとな仕立ての半ズボンの制服、絹の靴下、磨きあげられた編上げの黒靴、金モールで縁取りをした帽子、外出時は手袋着用。
級友は、公家や大名や爵位を与えられた華族の子弟、見るもの聞くものさわるものから食べるものまですべてが、義江にとっては驚愕だった。
しかし貧乏に生まれたにもかかわらず生来高級なものが好きな義江は、自身ではそのことにまだ気づいていないが、この生活に生まれた時からそうだったかのように馴染んでいったのだった。(つづく)