日本の「ツッコミ」文化で中国の若者たちが知った「抵抗」の手段

執筆者:楊駿驍 2023年10月12日
エリア: アジア
表立った抗議活動が難しい中国だが、それでも若者たちは自分たちの意見を表明する手段をさまざまな文化からの影響を昇華させて編み出しており、「白紙運動」もその一つの結実だという(2022年11月、中国・北京での「白紙運動」)(C)EPA=時事

 日本のマンガやアニメが世界中の若者に受容されるとともに、その感性やコミュニケーションの作法も知らぬ間に「輸出」されている。マンガやアニメを楽しむなかで、中国になかった「ツッコミ」というコミュニケーション手段を知った若者たちは、画一的な未来を押し付ける社会に抗う感性を編み出したという。

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 中国における、日本のマンガ・アニメ・ゲームといったコンテンツの人気はとどまるところを知らない。

 二十数年ぶりに公開された「スラムダンク」の劇場版が中国で130億円以上の興行収入を叩き出し、30~40代の間で一大社会現象となったし、新海誠の映画は10~20代のより若い世代からそれ以上の人気を集めている。

 日本のゲームも熱烈に支持されており、「『ペルソナ5』が天下一のゲームならば、『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』は天そのものだ」と語る中国のトップアイドルの会話もミームとして流行した。

 その人気は単に受容において現れているだけでなく、中国自身のコンテンツ制作にも大きな影響を与えている。

 例えば、世界中で人気を博している『原神』『崩壊:スターレイル』といったオンラインゲームはまさに日本のアニメ調のグラフィックであり、欧米ではしばしば日本のゲームとして誤認されるほどである。

 中国では、『原神』のゲーム音楽で踊りを披露した中学生が校長に「日本文化を宣揚するとはどういうことだ」と烈火のごとく怒られる動画が出回り、「『原神』はれっきとした中国産ゲームだ」とゲーマーたちが怒って炎上したこともあった。

 しかし、日本のサブカルチャーの中国における影響はコンテンツのみにとどまるものではない。独自性を持つ文化的なコンテンツは、同じく独自性を持つ文化的なインフラによって支えられるものである。日本のコンテンツはそれ独自の「情報」のインフラによって支えられている。そのインフラはコンテンツの内容だけでなく、感性やコミュニケーションの作法といった側面で強い影響力を発揮することもあるのだ。

家庭、学校、地域社会、すべてが同一の論理で貫かれる苦しさ

 中国でIT産業が勃興した背景に、2000年代から続くパソコンを介したコミュニケーション文化がある。

 特に、「WeChat」という中国のコミュニケーションのインフラを独占的に運営しているテンセントは、もともと1999年に「OICQ」(のちの「QQ」)というインスタント・メッセンジャーを公開したところからスタートした。そして、瞬く間に「QQ」は若者たちがコミュニケーションを取るためのインフラとなった。

 「QQ」は、過剰で過酷な受験戦争に押しつぶされそうになっていた若者に、「成功」のための勉強を中心に統制されていた日常生活から抜け出し、全く遠く離れた世界、一種の飛地ともユートピアともいえるような新しい「場」へのアクセスを可能にした。

 また、パソコンもネット接続も一般の家庭に普及していなかった当時、パソコンのソフトウェアであった「QQ」には、ネットカフェでアクセスすることが必要だった。薄暗く閉鎖的なネットカフェという空間はその日常世界からの切断という性質をさらに強調しているように感じられた。

 当時の「QQ」はユーザーのオンライン時間に応じてレベルが上がっていくシステムなどを導入し、コミュニケーションをゲーム化したと同時に、さまざまなゲームを「QQ」と統合させて、「みんなでワイワイ言いながら遊ぶ」というゲームのコミュニケーション化も行っていた。現在、テンセントは「WeChat」や「QQ」の運営とは別に、世界最大のゲーム会社として知られている(そう、ソニーでも任天堂でもエレクトロニック・アーツ〔EA〕でもない)が、そのゲームもまたコミュニケーションをベースとしているものである。

 現在の中国の若者文化とはネットを介したコミュニケーションをベースとした文化にほかならない。そのエネルギーと力のほとんどすべてがウェブ・コミュニケーションから生み出されているのである。

 日本の若者には、家庭、学校、友人との小コミュニティ、地域社会、全体社会といった細かく分散した所属先があり、それぞれが異なる価値観や論理によって動く場合が多い。

 例えば、家庭は安心と承認の場所として、学校は勉学や部活といった活動に打ち込む場所として、地域社会はボランティアや祭りなどの公的な活動の場所として、友人とはいっさいの利害関係から自由な「ダベる」場所として、と異なる文脈においてそれぞれをとらえることができる。

 それに対して、中国の家庭、学校、地域社会、社会全体はすべて同一の論理によって貫かれている。すなわち、競争による社会階層の上昇であり、その手段は「良い大学への入学」一択しかなく、勉強こそ人生を成功させるための唯一の道だと考えられていた。すべての川が一本の大きな川――それこそ長江や黄河のような川――に「合流」する、というふうにイメージしてもらえば良い。中国の若者たちにとって逃げ場がないと感じられてもおかしくない。

 テンセントの「QQ」やそこから派生したゲームなどのコミュニケーションの場、さらにそれを支えたネットカフェという場が合わさって、「合流」に対する抵抗の場としての「交流」の場を構成していたのである。

 そこでは、勉強とその先にある「成功」という単一化された価値観にとらわれず、多様な人やものに触れ、多様な価値観を交差させて、別の「支流」へと分岐させ、全く新しい場所へと到達することが可能だった、すくなくともそのように感じられていたのである。

過剰とも言えるレベルで普及した「弾幕」

 2009年から2014年にかけて、日本のニコニコ動画のコメント機能から生まれた「弾幕」という現象が中国に輸入され、本家以上の影響力と広がりを見せていった。

 弾幕とはニコニコ動画という動画共有サイトが提供した、動画に覆い被さるように視聴者が書き込んだコメントがリアルタイムで流れていく状態を指している。文字が密集している状態がシューティングゲームにおける「弾丸の幕」に似ていることからその名前になった。

 いわゆるコメント欄と異なるのは、弾幕コメントは動画の特定の時点に紐づけられ、そのタイムラインに統合されていることである。さらに、みんなで一斉にコメントを送信すると、動画の内容が見えないほどに密集することもあるが、それがかえってある種のお祭り感覚を引き起こす。

 中国では、ニコニコ動画と同時に、アニメ、マンガ、ゲームなどのオタクカルチャーの文脈を多分に受け継ぐ形で輸入していた。それが現在若者文化の中心地となっているbilibiliという動画共有サイトに結実していく。ちなみに、現在はCEOの陳睿を除けばテンセントがbilibiliの最大の株主となっている。

 重要なのは、そのようなオタクカルチャーの文脈の外にも、「弾幕」が広がっていったことだ。

 映画館での映画上映にも試験的に弾幕の投稿が導入され、話題になっていた。bilibili以外の大手の動画配信サイトも軒並み弾幕を基本的な機能として導入していった。日本のテレビと違って、中国は早い段階からスマートテレビが普及し、家の居間でも動画配信サイトの映画やドラマを中心に観るという家庭が多い。そこに弾幕を導入するということは、リビングさえもがネット上のコミュニケーション空間に開かれるということだ。

 さらに、動画、映画、ドラマにとどまらず、弾幕は一種の汎用的なコミュニケーション機能として、音楽アプリ、ウェブマンガ、ネット小説、オンライン講義などあらゆるメディアに実装されていった。

 例えば、ウェブマンガでは弾幕は流れていくのではなく、テキストボックスとしてポップアップしてくるため、マンガのもともとの吹き出しと並列されることになり、まったく新しい読書体験を実現した。

 そのような過剰な一般化の背景には、上で述べたような、中国における、サブカルチャーとコミュニケーションとの独特な関係性がある。日本が生んだ弾幕はまさにそのようなコミュニケーション中心の文化にぴったりで、かつさらにそれを推し進めるツールとして大いに歓迎されたのだった。

「計算された効果」の解体が意味するもの

 日本において、「弾幕」は主に共有された動画やライブ配信などに限定して使われていたのに対して、中国では映画、アニメ、ドラマなどの作品にも使用される。どのように使われているのかというと、ひと言でいえば、もともと交流を目的とした動画ではなく、交流の対象となることを想定していなかった「作品」に対しても「ツッコミ」をしながら観ているのだ。

 「ツッコミ」とは単に相手をからかうことやうまい切り返しを意味しているのではな く、相手の述べたことに別の視点から問題点を指摘すること(で笑いを引き起こすこと)である。漫才用語として基本的にボケとセットで使われるが、真剣な議論において「ツッコミを入れる」という用法もあるため、用意されたボケでなくとも、すべてがツッコミの対象となりうる。

 また、この記事にある研究が示しているように、ツッコミとは一種のフチドリである。対象の「どこ」を「どのように」見るかを操作することによって新しい効果や意味を生み出すコミュニケーションの作法である。

 作品にツッコミながら観る、ということは、場合によっては、作者や監督が作品を通して引き起こしたい効果を無化してしまうことにつながりかねない。

 例えば、ある映画の登場人物が深刻な危機に直面して、非常に厳しい表情がアップになっている場面で、「(その表情は)夏休みがもうすぐ終わるのに、宿題が全然終わっていない時の自分」という弾幕が流れてきたとしよう。ここでは、「厳しい表情」という部分が元の文脈から切り離され、「宿題が終わらない生徒」という全く異なる文脈へと接続されている。それによって、元の場面を通して監督が実現したいと思っていたシリアスな効果がむしろ正反対の笑いを誘う場面に変わってしまうのである。場面と場面、部分と部分との関係がきちんと計算されて構築された全体としての作品がここで解体されている。

 さらに、「弾幕」は作品の断片化、全く別の文脈への接続を通して、作者や監督の権力に反抗しているとさえいえる。作品の解釈と観方は自由だという者もいるが、作品内のシリアスな危機と夏休みの宿題が終わらないという滑稽な危機とを並置する自由まではさすがに想定していないだろう。その自由さは多くの読者や観客をつないで、集団として作品の全体性、作者の権力を脅かすのだ。

 重要なのは、アニメやマンガ、ドラマなどの日本発のコンテンツの受容を通して、「ツッコミ」という、対象と向き合う際の自由で反抗的なコミュニケーション作法が、弾幕の実装を機に一気に中国の若者に普及していったことである。

 日本の若者が会話している場で意図的に「ツッコミ」をする、その役を演じることで場を盛り上げる作法はごく一般的なものだろう。それに対して、中国にはもともと「ツッコミ」という概念はなく、似たようなものが漫才にあっても一般的なコミュニケーション作法として浸透していなかった。つまり、中国の若者たちにとって「ツッコミ」はまったく新しいコミュニケーション作法であり、他の人とつながり、対象や世界を見るための新たな視点を提供するものだったのである。

「白紙革命」という究極の表現

 弾幕と「ツッコミ」は反抗、もしくは抵抗するためのツールとして機能する。それは作品全体をばらばらに解体して、いろいろな関係ない文脈へとつなぎ、ありえない組み合わせや対話を実現させてしまう。このように見ると、すべての価値を一つに「合流」させようとする中国社会のプレッシャーに抵抗する、「交流」を重視する中国の若者たちのコミュニケーション文化を推し進め、さらにさまざまな「支流」を生み出していくことに弾幕は非常に適しているとわかるだろう。

 ただ、弾幕による「ツッコミ」は一種のサブカルチャーとして、基本的にくだらなくて、笑えるものに使われる。そのため、「反抗」「抵抗」といった多分に政治的な意味合いを持つ言葉に違和感を覚える人もいるだろう。しかし、そもそもなぜ「反抗」や「抵抗」をそのような大仰で、政治的な言葉として捉える必要があるのか。政治の語彙を使って抵抗したり、反抗したりすることだけが政治へのカウンターではないはずだ。

 例えば、2020年から2022年にかけて、中国の新型コロナウイルスの対策で多くの人々が自由を厳しく制限され、家庭や仕事に大きな支障が生じていた。その時、ネットでドラマ『三国志演義』を視聴していたユーザーたちは、曹操が董卓の開催する「廃帝」の宴会に赴いた際に手に赤い招待状を持ってお辞儀するしぐさを、人の移動を管理し監視するために発行していた「健康コード」をかざすしぐさに見立てた弾幕を投稿して盛り上がったりしていた。

 それは笑いを引き起こすだけのくだらないネタでしかないのかというとそうではない。権力の構図が大きく変わろうとしている、大激動を予感させるその場面で、諸侯もまた律儀に「健康コード」をかざして管理を受けるという不条理さを際立たせることで、翻って自分たちの置かれている状況の不条理さを強調するのだ。政治的な言葉を使わず、政治的な意図がなくても、強い政治的な意味合いを持ってしまうことがある。

 中国政府によるコロナ対策は、有無を言わせない強制力を持つ。言い換えれば、それは政府によって規定された文脈の中でのみ受け取られ、実行されることを要求する。それに対して、「ツッコミ」とは対象を独自の形で縁取って、別の視点や文脈の中に置いてその意義を再考することで、別の受け取り方があるという事実を思い至らせる。

 「ツッコミ」というコミュニケーション作法の普及は、若者たちにそのような文脈の操作の技術を鍛えさせ、彼らの感性を変えた。そして、その技術と感性は当然中国の社会問題や政治問題にも向けられる。

 例えば、昨年の過剰な防疫政策に抵抗する「白紙革命」はまさにその究極の表現にあたるだろう。中国の若者たちが連鎖するように次々と掲げていった白紙には一切の政治的な主張が書かれていないからこそ、そのありうる文脈を想像せよと見る者に迫る。そして、誰もが思い至る。政府の規定する文脈以外に私たちには何も許されておらず、その白紙の空白は私たちの主体性の欠如の象徴にほかならないのだと。

 文化は独自の仕方で「政治」をする。ちょうどミミズが地中に隠れて何も考えずに食べ、排泄するだけで大地を耕して豊かにしてしまうのと同じように、何も考えずにくだらないネタや笑いでわいわい騒ぐだけでも政治的な感性を豊かにして、抵抗や反抗の可能性を育むことができる。日本の文化もそれに少なからず貢献をしているのだ。

カテゴリ: 社会 カルチャー
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執筆者プロフィール
楊駿驍(ようしゅんしょ) 早稲田大学文学学術院 講師。博士(文学)。専門は現代中国文学・文化。総合批評雑誌『エクリヲ』などで文化批評を執筆。近著に連載「<三体>から見る現代中国の想像力」や「Re‐Verse 世界の再‐詩化」など。中国語図書室「遇見書房」顧問。NPO法人ほしのひかり理事。中国生まれ、日本育ち。満州族。
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