実質賃金が上がらない「収奪的イノベーション」を回避せよ

執筆者:河野龍太郎 2025年5月26日
タグ: AI
エリア: アジア
イノベーションには、その経済的恩恵が一握りの高スキル労働者や巨大企業に集中する「収奪性」が存在する (C)時事
過去四半世紀、日本は時間当たり生産性を3割向上させながら、実質賃金は全く上昇しなかった。その根本には「イノベーションさえ起こせば、日本経済の課題は解決」という、ある種の幻想があるのではないか。イノベーションは本来、野性的で、富の集中と経済格差をもたらす収奪的なものとなり得る。イノベーションの黄金期は、歴史上、二度だけ現れたが、社会がそれを包摂的制度で飼いならし、下流中間層に富を再分配したことで実現している。

 イノベーションさえ起こせば、日本経済の課題は解決――。政府も大企業経営者もエコノミストも声を揃えてそう唱える。だが、本当にそうか。

 確かにイノベーションは富を創出する。が、歴史を振り返れば、イノベーションが社会全体の豊かさにつながるのは稀だ。むしろ、富の集中と経済格差をもたらし、社会の分断を助長した。

 18世紀後半に始まった産業革命も、当初100年はごく一部の人に恩恵が集中し、大多数の労働者は低賃金と劣悪な労働環境に苦しんだ。子供でも操作可能な機械の導入で、家内制手工業における熟練労働者は仕事を失い、19世紀後半まで実質賃金の低迷が続いた。

 1990年代後半以降のIT革命も同様だろう。経済的恩恵は一握りの高スキル労働者と巨大テック企業などに集中し、多くの人の実質賃金は停滞している。中間的な賃金の仕事は失われ、高い賃金と低い賃金の仕事への二極化が進み、中間層は瓦解した。その結果、中道派政党は凋落し、先進各国の政治は液状化している。

イノベーションの本質は収奪的

 2024年のノーベル経済学賞に選ばれたダロン・アセモグルとサイモン・ジョンソンによれば、イノベーションには包摂的なものと収奪的なものの二つがある。前者は幅広い人に恩恵をもたらす一方で、後者は限られた一部の人に恩恵が集中し、むしろ多くの人には経済的苦痛をもたらす。そして歴史上、包摂的イノベーションは、1870年代の第一黄金期と第二次世界大戦後の第二黄金期だけにおいて例外的に実現した。それはなぜか。

 二人の研究から見えてくるのは、イノベーションの本質が収奪的であり、それを包摂的なものに変えるには、経済制度や社会制度が包摂的でなければならないということだ。以下、詳しく見ていこう。

カテゴリ: 経済・ビジネス
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
執筆者プロフィール
河野龍太郎(こうのりゅうたろう) BNPパリバ証券チーフエコノミスト。1964年、愛媛県生まれ。1987年横浜国立大学経済学部卒業後、住友銀行(現・三井住友銀行)入行。大和投資顧問(現・三井住友DSアセットマネジメント)、第一生命経済研究所を経て2000年よりBNPパリバ証券。2023年より東京大学先端科学技術研究センター客員上級研究員も務める。日経ヴェリタス『債券・為替アナリスト エコノミスト人気調査』のエコノミスト部門で、2024年までに11回の首位獲得。著書に『成長の臨界』、『グローバルインフレーションの深層』(共に慶應義塾大学出版会)、『日本経済の死角:収奪的システムを解き明かす』(ちくま新書)など。
  • 24時間
  • 1週間
  • f