
はじめに
予測不能なトランプ政権2.0といかに向き合うかは世界的なイッシューである。トランプ対策の重要性は、ウクライナやヨーロッパ諸国だけでなく、アジア最大の同盟国・日本にも当てはまる。石破茂首相は2025年2月上旬にドナルド・トランプ大統領との初会談を乗り切ったが、トランプの関税政策や軍拡要求、対中・北朝鮮政策のすり合わせなど課題は山積している。アメリカからみれば日本は信頼に足る同盟国であるものの、アメリカに対して防衛義務を負わないジュニア・パートナーでもある。日本にとって超大国アメリカが非対称な同盟国であることは、戦後外交の宿命といってよい。日米同盟の非対称性にもかかわらず、吉田茂、中曽根康弘、安倍晋三らの歴代首相は、米国大統領と伍して多くの外交的成果を上げてきた。彼らはいかなる戦略を用いてアメリカを説得したのか。歴史と格言から外交戦略をひもといてみたい。
吉田茂とダレス——タイミングをつかむ
ディプロマティック・センスのない国民は、必ず凋落する
――吉田茂『回想十年』上巻(中央公論新社、2014年)28頁
日本を独立に導き、戦後外交の基礎を築いたのは吉田首相であった。独立回復と安全保障をめぐって占領国であるアメリカとの交渉に臨む際、吉田は当初、講和後の安全保障体制について明言を避けた。いわば曖昧戦略であり、1950年6月22日の初会談後にジョン・フォスター・ダレス特使は「彼(吉田)は、まるで不思議の国のアリスのような感じがした」と同行していたシーボルトに不満を漏らした(W・J・シーボルト/野末賢三訳『日本占領外交の回想』朝日新聞社、1966年、223頁)。
吉田は不利な条件を呑まされることを嫌い、自国に有利な展開が訪れるタイミングをつかもうとした。そのわずか3日後に朝鮮戦争が勃発し、アメリカが講和を急ぐようになると、時宜を得た吉田は主体的に交渉を進めようとする。冷戦の激化により、米国は日本を西側陣営に組み入れる必要性を認識し、講和を早める方針を固めていた。ハリー・S・トルーマン大統領が講和条件として米軍駐留を前提としたため、吉田は国内の治安維持は自国で行う一方、独立後の防衛を米国に依存する構想を練った。
ダレスが1951年1月に再来日すると、吉田は本格的な講和条約交渉に着手した。争点は日本の再軍備問題と米軍駐留の扱いである。ダレスは、自由主義陣営の一員として再軍備による貢献を求めた。しかし吉田は、日本が経済復興の途上にあり、内外で軍国主義復活への警戒感も強いことから、本格的な再軍備を拒否した。吉田の不遜ともいうべき態度はダレスを苛立たせるに十分だったが、双方とも講和に向けて交渉決裂を回避せねばならなかった。そこで吉田は再軍備の萌芽として、5万人規模の保安隊(のちの陸上自衛隊)を創設する案を示してダレスを懐柔するとともに、占領統治の延長とは異なる形での米軍駐留を構想した。吉田の方針は、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結に結実する。
吉田の基本戦略は対米協調下での軽軍備による経済主義であり、安全保障でアメリカに依存しながら西側陣営の一員と自己規定しつつ、経済的な復興と繁栄を優先した。国内で吉田の「片面講和」と日米安保は、「全面講和」や非武装中立を主張する野党や知識人のみならず、「自主外交」と強固な再軍備を説く右派からも反発を招いた。実際、吉田の対米外交には、いくつもの譲歩が含まれた。第1に、米国による対日防衛義務が明記されていないこと、第2に、小笠原諸島や沖縄を当面はアメリカの施政権下とすること、第3に、中国代表権をめぐって中国ではなく台湾を承認すると約したこと、第4に、ソ連との講和や領土問題を先送りにしたことである。
これらの限界はあったにせよ、吉田が外交戦術を駆使して米側要求に応えつつ寛大な講和を引き出し、西側陣営の一員としての地位を確立させたことは、やがて経済大国・日本の繁栄を導くことになる。吉田は小刻みな譲歩と引き換えに、アメリカから寛大な講和という譲歩を得たのである。冷戦下で日本の脅威となったソ連に対抗しうる手段は対米協調以外になく、吉田路線は戦後外交の原型を築いた。吉田ドクトリンと呼ばれる外交路線は、富国強兵が頓挫した戦前の反省に基づき、いわば強兵なき富国を目指したのである。吉田は「戦争に負けて外交に勝った歴史がある」と口にしていた(武見太郎『武見太郎回想録』日本経済新聞社、1968年、118頁、高坂正堯『宰相 吉田茂』中央公論新社、2006年、6頁)。
中曽根康弘とレーガン――「手づくり外交」
まことに外交は手づくりである。現代は特に、その手づくりによる首脳間の信頼とリーダーシップによって、世界は動いているのである。――中曽根康弘『政治と人生――中曽根康弘回顧録』(講談社、1992年)316頁
米国大統領との蜜月で伝説的なのが中曽根首相とロナルド・レーガン大統領の「ロン・ヤス」関係だ。1983年1月、首相就任直後に訪米した中曽根はホワイトハウスでレーガンに強い印象を与え、ファーストネームで呼び合う友情を芽生えさせた。中曽根は貿易不均衡の是正に取り組むだけでなく、自由世界の一員として防衛面でも責任を果たす決意を示し、レーガンの信頼を得た。日の出山荘やキャンプ・デービッドでの会合は語り草となっている。「ロン・ヤス」関係は両国間のホットラインとなり、二国間関係を超えた世界戦略の下地となった。とりわけ、ソ連による大韓航空機撃墜事件では、中曽根は自衛隊が傍受したソ連軍の通信記録を国連に提供することで米国の対ソ批判を支援し、日米が一体として行動することを可能にした。
「ロン・ヤス」関係は日米関係史の1つのピークといってよい。中曽根は日米安保体制の強化に積極的であり、暗黙の上限とされてきた防衛費GNP(国民総生産)比1%枠を突破した。さらに中曽根は、日米合同演習の拡大や自衛隊によるシーレーン防衛で米軍を支援し、「不沈空母」発言も飛び出した。中曽根外交の成果としては、プラザ合意による円高誘導や前川レポートによる内需拡大と市場開放により、日米経済摩擦を是正したことも挙げられる。アメリカは日本をより対等なパートナーと見なすようになり、レーガン・ゴルバチョフ首脳会談での中距離核戦力(INF)全廃条約交渉では、中曽根は事前に日本の安全保障への配慮をレーガンに説得していた。

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