※お二人の対談内容をもとに、編集・再構成を加えてあります。
多民族国家ロシアを束ねる「物語」
小泉 このYouTubeチャンネルでROLESのメンバーが書いた本を取り上げるシリーズをやりたいと思っていたところ、今回はちょうど西山さんが新著『現代ロシアの歴史認識論争:「大祖国戦争史観」をめぐるプーチン政権の思惑』を出されたということで、実は私も推薦文を書いているのですが、ぜひこの本を取り上げたいと思っております。
西山さんはもともと「ロシア愛国主義」をテーマに博士論文を書いていますけど、今回、歴史認識論争を取り上げたのは、どういう背景なんですか?
西山 愛国主義を構成する一つの要素として歴史認識があります。プーチン政権は独ソ戦=(ロシアで言う「大祖国戦争」)の記憶を称揚しているわけですけど、その戦勝の記憶をどうやって守っているのか。ロシアの歴史認識は色々な国から批判されていますので、自分たちの正当性をどう内外に向けて発信しているのか、そのメカニズムをこの本で明らかにしたいということで取り組みました。
小泉 ロシアに行くと、独ソ戦の記憶をすごく生々しく感じますよね。街道沿いにいきなり戦車がドーンと停車してあって、そこには赤いカーネーションがいつも捧げられているとか。郵便局の窓口でも「大祖国戦争に従軍した人は並ばなくてもいいです」みたいな案内があったりする。80年も前の戦争の話を、本当にいつもみんながしていて、戦争の記憶を想起せざるを得ない風景がそこら中にあると感じます。
実際、2800 万人とも言われる国民が死んだ戦争なので、あの戦争のことを誰もがまだずっと話し続けることもわからなくはないのですが、同時にやはり政権としてはそこに何らかの利用価値を見出している部分があると思います。具体的にどういう利用の仕方というか、政権にとってどのように都合のいい見せ方になっているのでしょうか?
西山さんの前著『ロシアの愛国主義:プーチンが進める国民統合』(法政大学出版局、2018年)でも、ロシアのアイデンティティを形作るものとして特にプーチン大統領が着目したのが独ソ戦の記憶だったと書かれています。それはやはり、ロシアは多民族なので統一的なアイデンティティを作るのが難しいということでしょうか。
西山 そうですね。ソ連解体後はチェチェン紛争などがありましたけど、色々な民族を束ねるためにどういった精神的紐帯、物語が適当なのか考えた時、民族に関係なく共有できるものはおそらく独ソ戦の記憶だろうと。それはプーチン大統領が20年間ずっと述べてきていることでもあるのですが、民族関係なく肩を並べて敵に向かって銃を撃って、それが祖国のためになるという経験。そういった意味で非常に利用しやすかった点が一つ。
国民統合、つまりナショナル・アイデンティティを形作るという目的とともに、もう一点は、政権に対する忠誠心や支持を調達する道具として愛国主義が利用されるようになってきた。独ソ戦ではみんなが愛国心を持って祖国のために戦いました、今ロシアはこういう状況なので、祖国のために頑張っているプーチン大統領あるいは政権を支えてください、と。
エリツィン政権時代はなかった「聖ゲオルギーのリボン」
小泉 過去の歴史を利用して多民族のロシアを束ねるとともに、政権に対する支持調達のためにも利用するようになってきたということですね。それは、エリツィン政権よりもプーチン政権の方が顕著ですか?
西山 そうですね。エリツィン時代も1995年以降はパレードをやっていたので、独ソ戦の記憶を利用はしていましたけど、プーチン政権が誕生した後はより積極的に利用されるようになってきた印象があります。
小泉 あの「聖ゲオルギーのリボン」という黒とオレンジのリボン(※独ソ戦の戦没者を追悼するリボン)も、十数年前からやたらみんな着けるようになりました。特に5月の戦勝記念日前後ですね。あれはやはりプーチン政権の時に始めたのですか?
西山 エリツィン時代はなかったですね。
小泉 ですよね。
西山 2000年代後半になって、ゲオルギーリボンがロシア全土に無料で配られるようになった。プーチン政権が予算を計上して、モスクワ、サンクトペテルブルク、そして極東と、ロシア全土の各都市に配って、左胸に着けてください、あるいはカバンに結びつけてください、ということを始めました。
小泉 車のアンテナとかに付けていることもありますよね。
西山 ありますね。
小泉 すごく印象深いのは、ウクライナに攻め込んだ当初、ウクライナの空港を押さえに行こうとしたロシアのパラシュート部隊の兵隊のヘルメットにもゲオルギーリボンが付けられていた。だから今の戦争ともまっすぐ結びついている。
国連加盟国の過半数がロシアの決議案に賛成
小泉 ちなみに新著のタイトルは『論争』となっていますけど、これは国内での論争なのか、それとも外の世界との論争を指すのですか。
西山 先ほどロシアの歴史認識が批判されていると申し上げたんですけど、バルト三国をはじめとした旧ソ連圏の国、あるいはかつて共産主義を掲げていた国が体制転換後に民主主義を志向するようになり、ロシアの歴史認識を批判している。
小泉 ソ連がドイツに反撃して東ヨーロッパに攻めていって、そこに社会主義政権を作り、バルト三国については再編合してしまった。それをソ連は「解放」と表現したけれども、現地の人たちにしてみると違う。そういう論争ですね。
西山 そうですね。バルト三国や旧共産圏の国々からすると解放ではなくて「新たな占領」だということで、プーチン大統領が喧伝する歴史認識は認められない。そういった国々との論争があるのが一つ目です。ロシアからすると、「我々の偉業を貶めている、うるさい奴らだ」という外向きの論争です。
ロシアとエストニア、あるいはロシアとラトビアといった一対一の関係だけでなく、「ロシアと欧州」という形で論争の枠が大きくなって、グローバルに展開していると思います。そういった意味で、プーチン政権としては自分たちの歴史認識を正当化するために、ロシアだけで発信するのではなくて、色々な国と協力する。あるいは国連などでの活動を活発化させることで、賛成国が1だったのが20、30となり、数の面でも印象づけるように頑張っている。
小泉 それはつまり、ロシアの歴史ナラティブ作りみたいなものが、ある程度成功している部分があるということですか。
西山 そうですね。例えば国連で毎年ロシアが決議を提案して採択されているのですが、190カ国ぐらい加盟国がある中、大体120~130の国々が賛成している。バルト三国や欧米の国々は棄権や反対に回るのですが、少なくとも数字の上ではロシアの提案に賛成する国が多い。
小泉 ロシアはどういう決議を出したのですか?
西山 ロシアがナチスドイツをやっつけたのに、残念ながら欧州でナチズムを信奉するような考え方が再び出てきている、といったものです。
小泉 ネオナチとか過激な右翼思想というものが再び台頭してきていて、ウクライナもネオナチ国家だから許しておけないと、そういう位置づけになっている?
西山 おっしゃる通りです。少なくともロシアはそういうロジックを組み立てて決議案を作っていて、採択を諮った時に120~130カ国が賛成している。あくまで数字の上では多数を獲得しているということで、それをロシア外務省やロシア政府が宣伝して、「みんな我々の考え方に賛成していますよ」というナラティブを発信しています。
小泉 字面の上では例えば「歴史歪曲を許さない」とか「ネオナチの復活を許さない」とか言っている。私もそれ自体はその通りだと思います。でもロシアの言う「歴史歪曲」には、やはり議論の余地がある微妙な事例が含まれている。復活したネオナチが今のヨーロッパにおいて支配的になっているとか、ウクライナがネオナチ国家であるとか、具体例を見ていくと言っていることが怪しいんですよね。
ですが総論としては別にそんなに変なことは言ってないから、割と賛同が集まってしまうという側面がある。
「パンフィーロフの28人」は実在したのか
小泉 ロシア国内ではどうでしょう。論争というほどの認識の相違、争点があるのですか?
西山 ロシア国内でも論争は当然ありまして、プーチン政権は国営メディアを使って独ソ戦の記憶を盛り上げているのですが、実は以前からちょっと異なる考え方が出てきてしまった。その一つが、この本の中でも取り上げた「パンフィーロフの28人」です。これはソ連時代から歴史の教科書で必ず取り上げられてきた、独ソ戦のモスクワ防衛戦で尽力した英雄28人のことですけど、メドヴェージェフ政権期の2010年代に「実はそういう28人は存在しなかった」ということをロシアの歴史家が国内で発信したのです。当時のメディアの報道を見ますと、あれだけ教科書に載っているのに、実は存在しなかったなんて本当なのかと、大きな論争になっています。
小泉 「パンフィーロフの28人」は、言わばロシア版の「肉弾三勇士」みたいな話ですよね。それが本当は実在しなかったと。
西山 はい。それで当時のメディンスキー文化大臣が積極的に反論を発信するわけです。今まで公開されていなかった公文書を公開して、ちゃんと実在したのだと。もしかしたら人数は違うかもしれない、28人じゃなくて30人かもしれないし40人かもしれないけど、重要なのは数ではなく、祖国を守るために頑張った人たちがいたということだ、と。メディンスキー文化大臣は「パンフィーロフの28人」が実在しないと言った歴史家に対して、「歴史家として正確な情報を発信してください」と注文するなど、かなりプーチン大統領の歴史認識に寄り添った発言を繰り返して、最終的にその歴史家は、公文書館の館長だったのを解任されてしまいました。表向きは自己都合退職なのですけど、本人が文化大臣との論争が原因でこういった結論になったと語っています。
そういったことがあったので、政権としては、バルト三国とかアメリカが主張するような歴史認識を国内で広められたら困るということで、各種の法律を改正して積極的に異論を封じ込める。
小泉 法的に封じ込めるわけですね。でも歴史を研究して、「実態はこうではなかった」とかいう話は、割と地味な学術的な活動ですよね。それを法的に封じ込めるというのは、どういうふうに封じ込めるんですか?
西山 例えば、ナチスドイツの鉤十字を SNS でロシア人が投稿したりすると、本人の意思はどうであれ、そういったものを幅広く目につく形で拡散してはいけないと、やった人は刑法で罰する、あるいは行政法違反に処する。
小泉 ロシアでよくある「○○のプロパガンダの禁止に関する法律」というやつですね。
西山 そうです。2014年以降、刑法や行政違反法が何度も改正されていて、鉤十字などの写真を SNS にアップしてしまうと、特に公務員は民間人に比べると罰則が厳しくなるとか、そういった法改正をしています。
小泉 例えば研究発表の中身によっては、行政違反行為とかになって罰金を科されることになるんですか?
西山 それがロシアの下院でも議論されたのですが、真に学術的なものであれば問題ないけど、それを逸脱して、思想を流布させる目的を持って拡散してしまうと罰則の対象になる。
小泉 国外においても国内においても、歴史というものは単に過去の問題ではなくて、非常に現代的な問題なのですね。まあどこの国でもそうだと思うのですが、ロシアにおいては国民結束の原理と結びついて余計にセンシティブになりつつあるし、その間に戦争も始めてしまったから、ますます過去の戦争をどう位置付けるかが重要になっている。
プーチン政権は対日歴史論争で中国と共闘
小泉 ロシアの歴史認識論争は、日本にも色々関係する部分がありますよね。つい最近もロシア政府は、「日本は第2次世界大戦の結果を完全に認めていない唯一の国だ」と名指しで非難していました。ロシアの歴史認識論争全体の中で、日本の比重はそれなりに大きいのですか?
西山 ええ。プーチン政権発足当初の2000年代はあまり日本に対する言及はなかったのですが、ある時期を境に言及するようになりました。最初にロシア外務省が日本の国会議員の靖国神社参拝について不満を述べたのは2013年ですけど、なぜこの時期かというと、歴史認識問題で中国と協力を密にし始めたのが2010年以降なのです。バルト三国や旧共産圏の国々からロシアの歴史認識が批判されている時、ロシア単独だと心もとないので、「大祖国戦争史観」なるものを正当化するために中国とも協力するようになった。中国にしても、日本の歴史認識を取り上げて中国共産党の正当性を発信したい。おそらく中国側から何らかの要請があって、ロシア側も日本に対して歴史認識で批判・クレームを述べているのだと思います。
靖国神社参拝もそうですし、あるいは731部隊に関してもロシアが公文書を公開して日本を批判しているので、かなり中国に寄り添った発言をしている印象があります。これは日本にとって無視できない点ですので、今引き続きウォッチしていく必要がある気がします。
小泉 でも731部隊問題でよくわからないのは、同部隊の存在とか、そこで生物兵器の研究をしていたとか、捕虜に対して残虐な人体実験をしたとかいう事実を、日本が否定しているなら批判はわかるのですが、日本は認めているわけですよね。ロシア側は、さも日本がそういう事実さえ認めていないかのような体で、「どうだ、こんな証拠が出てきたら言い逃れができないだろう」と文書を出してくる。日本は別にそこは争っていないのに。なぜそれが日本に対するカードになると思い込んでいるのか、よくわからない。ロシアの当局者が認識している歴史問題と、日本側の認識とのズレみたいなものも、今後は研究対象になりそうですよね。
西山 そうですね、ちょっと面白いですよね。
小泉 歴史認識論争から始まって、よりアクチュアルな日露関係、またはロシア政府内部における認識、言説や研究というところまで入っていけるかもしれない。
西山 そうですね。色々と発展させられそうな内容もありますので、引き続き取り組んでまいりたいと思っております。
小泉 次回作も期待しております。ありがとうございました。