「杉原千畝の10倍、シンドラーの50倍」もの命を救った日本人――投獄経験もある「名もなき英雄」が成し遂げた敗戦直後の奇跡を追う
城内康伸『奪還 日本人難民6万人を救った男』(新潮社)
1945年8月、朝鮮半島。
日本が無条件降伏した10日後には38度線が封鎖され、北側に取り残された邦人たちは難民と化した。国家から見放され、飢餓や伝染病で斃れゆく老若男女の前に忽然と姿を現した男。死をも覚悟した同胞たちを祖国へ導いたことで、かれは“引き揚げの神様”とまで呼ばれるようになる。
『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸・著/新潮社)は、名もなき英雄「松村義士男」による集団脱出工作に光をあてた発掘実話だ。
「戦後80年近くなると、新しい話を探し出すこと自体が難しい」と語るのは、ジャーナリストの森健さんだ。だからこそ、取材者は腕と見識を試される。その点、本書は丁寧な調査や取材を感じさせる新事実に満ちたノンフィクション作品であると同時に、これまで歴史に埋もれていた松村の「並外れた功績」にふれた著者による「静かな興奮も漏れるように伝わってくる」1冊だという――。
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先の大戦をめぐる報道は、腕と見識を試される仕事だ。
戦後80年近くなると、新しい話を探し出すこと自体が難しい。軍の将官級はもちろん、前線の兵士も大半が鬼籍に入った。空襲など本土での体験を語れる人も、多くは終戦時に幼かった人たちだ。こうなってくると、先の大戦をめぐる報道は新しい事実より視点の変化などに重きが置かれるようになる。時の経過を考えると、やむを得ないことだろう。
そんななかで新しい話を掘り出すのは、それだけ調査や取材の技量を必要とされるということだ。その意味で、本書『奪還 日本人難民6万人を救った男』は、丁寧な調査や取材がなされているのがわかる。多くの読者にとって初めて触れるであろう事実にあふれたノンフィクション作品だ。
終戦翌年、ソ連が支配する朝鮮半島北部、北朝鮮(現・北朝鮮)に取り残された在留邦人を多数、南朝鮮地域(現・韓国)に導き、そこから帰国の途につかせた人物がいた。瞠目するのは助けた人数で、その数じつに約6万人だという。
当時の北朝鮮は、ソ連軍や北朝鮮保安隊(トップは金日成)のきびしい監視があった時期でもある。そんななか、在留邦人をどのように帰していったのか。本書はその詳細を明らかにしている。
「このままでは日本人は死に絶えてしまう」――奮起した一人の男
終戦から間もなく、ソ連軍と米軍の流入によって朝鮮半島は分断され、北緯38度線で事実上の国境ができた。当時、朝鮮半島には約70万人の日本人(在留邦人)が滞在していたが、大きな混乱に見舞われることになった。それまで“外地”として日本の支配下にあったのに、日本が統治権を失うと突如“外国”となった。在留邦人は急遽帰国することを迫られた。
ただ、朝鮮半島の南北では事情が異なっていた。
米軍が統治する南朝鮮では、終戦から数カ月後には日本人約45万人が帰国の途につき、1946年春までにほとんど引き揚げが完了した。一方、ソ連が統治する北朝鮮では日本人の移動は制限された。終戦当時、北緯38度線以北には約25万人の在留邦人がいたとされる。
だが、北朝鮮にそのままとどまる選択はありえなかった。
当時の北朝鮮は、乏しい食糧事情に加え、治安も悪かった。終戦後、日本の軍や行政関係者は民間人を見捨て、我先と逃げ出した。一方で、支配のためにやってきたソ連兵は略奪、暴行の限りを尽くした。日本人の家から物品を根こそぎ奪うとともに、女性に対して凶暴性をむき出しにして襲いかかった。
さらなる苦難も襲った。日本人のいる施設では発疹チフスや再帰熱などの感染症が広がったのだ。次々と日本人が倒れていった。
「このままでは日本人は死に絶えてしまう」
そう危機感をもったのが、当時34歳の松村義士男(ぎしお)という民間人だった。
日本海に面した咸興(かんこう)市にいた松村は、同士とともにソ連軍と朝鮮側に医療などの改善を訴えた。さらに1945年12月、松村は旧い組織を改編し、咸興日本人委員会を設立。朝鮮側やソ連軍の了解を得て、在留邦人のための医療や食料改善の活動を始めた。
そうした活動の先にあった狙いが、在留邦人の日本への帰還だ。もちろん簡単ではなかった。北朝鮮から南朝鮮に入るには北緯38度線を越えるしかないが、そこへ近づくには鉄道などに乗る必要もあるうえ、各地ではソ連軍や北朝鮮の保安隊が目を光らせていた。しかも、在留邦人の数は数万人単位だ。
一方で、厳冬の1946年1月、咸興から南に30キロの地点にある収容所は悲惨を極める状況だった。朝鮮人側の調査報告にこうある。
〈老幼と男女を問わず、蒼白な顔、幽霊のようにうごめく彼らは皮と骨となり、足は利かず立つ時は全身を支えることも出来ず、ブルブルと震え、子供達は伏して泣き、無数の病める半死体は呻き乍ら叺(筆者注:かます=藁むしろでできた袋)の中に仰臥して居り、(中略)実に地獄の縮図以外の何物にもあらず〉
「不思議な人間力」で集団脱出工作を完遂
こうした危機的な状況を前に、松村は南朝鮮の京城(現ソウル)に向けて集団脱出計画を構想した。1946年2月になると、単身で京城まで出向き、また北朝鮮に戻って脱出ルートの偵察を敢行。その行程の要所では北朝鮮の保安隊を訪ね、日本人の南下に対する了解と協力を依頼するなどしながら計画を進めていった。
ソ連軍や北朝鮮の保安隊などが目を光らせるなか、松村はどのように集団の日本人を移動させることを実現させていったのか。
詳しくは本書を読んでもらうほかないが、端的に言って、松村は奇抜な策を弄したわけではない。
たとえば、咸興日本人委員会を通じて、咸興市保安署から旅行許可証を発行してもらう。さらに南下通行証明書を得る。それを持って移動した場所で、また地元当事者の助力を得るよう交渉する。日本人内でも委員会などの手続きをし、北朝鮮やソ連軍などの相手でも書類などの手続きを欠かさない。そんな手続きを必ず踏んでいるのが特徴的だ。
そして、試験的な集団移動が成功すると、それを継続し、人数を増やしていく。同年4月になると集団移動に利用する鉄道で日本人専用の輸送車両が1両増結する事態にも発展している。こうした記述が続くことに、読者は驚かざるを得ないだろう。
松村はなぜそんなことができたのか。
著者はいくつかの背景を示唆している。たとえば、戦前松村には共産党への協力など左翼活動への参加があり、ソ連や北朝鮮側の理解が得られやすかった可能性がある。また、中国語や朝鮮語を流暢に話すなどコミュニケーション力が高かったという理由もある。
だが、そうしたこと以上に、松村には「人間力」があったことが指摘されている。著者はこう書いている。
「それにしても、ソ連軍によって捕虜収容所に護送されている途中に逃走したにもかかわらず、そのソ連軍によって嘱託として雇われることになるとは、混乱の状況だったとはいえ、松村の不思議な人間力を感じざるを得ない」
そんな表現に著者の松村への温度感も感じられるだろう。
白眼視された“アウトサイダー”が救った命
著者の城内康伸は昨年末まで中日新聞社に在籍、1993年から1996年という金日成が他界した前後の時期に韓国で特派員として勤務。以来30年あまり、朝鮮半島に関わる本をたびたび記してきた。
そんな城内が松村義士男という人物に興味をもったのは、まず彼の功績だ。松村が北朝鮮から帰国させた避難民の数は約6万人。この数が尋常でないことは他の類例と比べればよくわかる。
「東洋のシンドラー」と呼ばれた領事館員(外交官)の杉原千畝がリトアニアでビザを発給して助けたユダヤ系避難民の数は6000人あまり。また、映画『シンドラーのリスト』で広く知られることになった本家、オスカー・シンドラーがポーランドで救ったユダヤ人の数は約1200人だ。数の多寡だけで評価すべきものでもないし、救った手法が共通しているわけでもない。それでも、松村義士男が救った人数は6万人と杉原の10倍、シンドラーの50倍である。
そんな並外れた功績にもかかわらず、松村は自身については恬淡としていた。事実、歴史から忘れ去られていた存在だった。著者はそんな松村の無頓着そうなところにも惹かれている。
「松村は当時、三十四歳という若さであり、一介の民間人に過ぎなかった。しかも戦前には、治安当局の弾圧に遭い、世間からは『アカ』と白眼視された“アウトサイダー”だった。
そんな人物がなぜ、敗戦によって日本が国家としての主権を失い無力だった状況で、在留邦人を引き揚げさせるために身を賭したのか──。その点に私は興味が湧いた」
著者は「はじめに」でそう書いている。
著者は公文書はもちろん、関係者の手記や多数の資料を丹念に集め検証し、松村の足跡を浮かび上がらせた。本書はそんな事実に基づいて記されているが、時折著者の静かな興奮も漏れるように伝わってくる。
6万人という避難民を助けた松村義士男とはこんなやつだったんだよ──。本書を読み終えた読者も、ついそんな話をしたくなるように思う。
◎森健(もり・けん)
ジャーナリスト。1968年生まれ。2012年、『「つなみ」の子どもたち』で第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。2015年、『小倉昌男 祈りと経営』で第22回小学館ノンフィクション大賞、第48回大宅壮一ノンフィクション賞。2023年、「安倍元首相暗殺と統一教会」で第84回文藝春秋読者賞受賞。