灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(24)
2018年12月30日

若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供、以下同)
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千代田区九段の靖国神社近く。明治21(1888)年にフランス人宣教師によって創立された暁星小学校、通称「プティ」には、30人以上の生徒が寄宿している。小学生でありながら大学生以上の経費がかかると言われるくらい贅がつくされている寮に、義江は入った。
暁星の制服は真っ黒の詰襟で、7つの金ボタンに左右の衿には金モールで刺繍された校章が輝く。ウール地のふかふかの触り心地で仕立ての良い制服に袖を通すと、義江は生まれ変わったような感じがした。フランスの陸軍士官学校の制服を真似たものらしく、偉い人になったような気がした。
暁星学校には華族や政治家などの著名人の子息も多く、学習院をなんらかの理由でやめて転校してくる者も多かった。カトリックの教えに従い生活態度などには極めて厳しい学校だ。
広いがらんとした寝室にはベッドが並び、一段高い所に舎監教師のベッドがあり、腕白ざかりの男子たちをみはる毎日だった。
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