灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(25)

執筆者:佐野美和2019年1月6日
若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供、以下同)

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「我らのテナー藤原義江」として活躍している人物が、まさか暁星小学校で時間を共にした「水野義江」と同一人物だったことに、後年、同級生たちは驚いたという。

「学校の前の雨宮さんの家に石を投げてガラスを割って、ブフ校長にひっぱたかれたあの水野が、我らのテナーとは」

「いや水野はハーモニカもうまかったし、音楽家になる片鱗はあったさ」

 追われるように退学させられた後、一切音信不通だった義江の変貌に注目した。

 暁星小学部を退学となった義江は寄宿舎を出ることになった。

 父がいる下関に戻るのか、大阪の母の所なのか。大阪の北の大火で母は無事なのだろうか、母はどこにいるのだろうか。

 安否なども知らされていないし、義江の方からも大人たちに尋ねたことは1度もない。

 結局義江は東京の身元引受人となっている瓜生寅の新宿淀橋の家に引き取られることになった。

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