灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(26)

執筆者:佐野美和2019年1月13日
若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供、以下同)

     72

 明治32(1899)年に、社会福祉の先駆者・留岡幸助が巣鴨の土地を購入し設立した「東京家庭学校」は、キリスト教信仰に基づいた教育方針の、民間の「感化院」として始まった現在で言う「児童福祉施設」だった。

 義江が入った明治44(1911)年は、地位の高い裕福な子息で手のつけられない犯罪予備軍の非行少年が入る更生施設とも言われ、校内は荒れていた。

 一方で「愛」を教育方針の核としていた校内は、留岡校長の知るところか知らないところかは分からないが、「少年愛」が蔓延していた。

 家庭学校での義江の1日はこうだ。

 午前5時の起床とともに布団を蹴って浴場に走り、水浴をする。水が凍る真冬も変わらない。その後礼拝堂で聖書とともに教師からの説教。皆それぞれの家族(クラス)に帰り寝具をたたみ、屋外に出て校庭の掃除。朝食の時間はわずか、8時から授業が始まる。午後は割り当てられた「労働」と農園の仕事が4時まで。夕食後は自習時間となるが、水曜の夜は聖書研究会、金曜の夜は祈祷会、不定期で演説会が開かれる。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。