灼熱 評伝「藤原あき」の生涯

灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(26)

執筆者:佐野美和 2019年1月13日
エリア: 日本
若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供、以下同)

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 明治32(1899)年に、社会福祉の先駆者・留岡幸助が巣鴨の土地を購入し設立した「東京家庭学校」は、キリスト教信仰に基づいた教育方針の、民間の「感化院」として始まった現在で言う「児童福祉施設」だった。

 義江が入った明治44(1911)年は、地位の高い裕福な子息で手のつけられない犯罪予備軍の非行少年が入る更生施設とも言われ、校内は荒れていた。

 一方で「愛」を教育方針の核としていた校内は、留岡校長の知るところか知らないところかは分からないが、「少年愛」が蔓延していた。

 家庭学校での義江の1日はこうだ。

 午前5時の起床とともに布団を蹴って浴場に走り、水浴をする。水が凍る真冬も変わらない。その後礼拝堂で聖書とともに教師からの説教。皆それぞれの家族(クラス)に帰り寝具をたたみ、屋外に出て校庭の掃除。朝食の時間はわずか、8時から授業が始まる。午後は割り当てられた「労働」と農園の仕事が4時まで。夕食後は自習時間となるが、水曜の夜は聖書研究会、金曜の夜は祈祷会、不定期で演説会が開かれる。

 演説会では、理路整然とした話をぶつ者、小ネタを披露する者など才能が溢れた。

 日曜日は、午前中は説教中心の日曜学校。ドレミファの音楽の勉強をしてから賛美歌を歌う。義江が賛美歌を歌うと「他の者たちと声が合わず、1人だけ高い」と言う理由でなんども注意された。午後は野球やテニス、軍艦遊戯に興じる。

 少年たちにとって1番苦しいのは外出が禁止されていることだった。義江も一度近所の雑木林に逃げたことがあったが、空腹と闇夜に勝てずに学校に戻った。「逃亡者」としての烙印を押された。

 義江を家庭学校に入れた身元引受人となっている瓜生寅の考えは、はじめ誰もが荒業ではないかと思ったが、次第に良い結果が現れていた。

「こんなに不良がいては、自分など本物の不良にはなれない」

 と義江は気づいたのである。

 風呂場が混むのは嫌だからと1番手に乗り込む毎日の水浴。その後の礼拝の時間にウトウトしている者を見ると、「水浴をサボったな」と義江がわかるくらいだ。

 次第に模範生になった義江はついに卒業の時を迎える。

 それから先も「学校流転」を繰り返す義江にとって、唯一「まっとう」できた学校となった。

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 ついに14歳で中学校を受験できる資格を得ることができた。

 中学生にどうしてもなりたかったので、勉強はあい変わらず好きではないが、戻った瓜生家にてネジリ鉢巻で机に向かった。義江に「芽生え」を教えてくれた女中のお愛の姿はなかったが、義江は気に留めないことにした。

 瓜生は「府立4中に進みなさい」と提案してきたが、義江は自分の学力では到底無理だとすぐに察し、「明治学院」を受験することに決めた。ここも難しいと思ったが、苦手の数学も漢文も少し勉強したところが出題されて、どうにか秋の補欠で入学が許された。

 晴れて明治学院入学ということが身元引受人の瓜生家の人々にもようやく荷が下りたという感じで、義江を見る目が温かくなっていた。

 瓜生夫人は、かねてからの約束で義江を日本橋の三越につれて行き義江に時計を選んであげた。

「義江さんよく頑張りました。電車通学には時計が必要です。よい子でお勉強もしっかりとね」

 明治学院の生徒となった義江に帽子と学生服が新調され、身につけてみた。真新しい制服が、義江を幼く鏡に映した。義江は土の上に制服を叩きつけて風合いをつけてから通学した。

 明治学院の寄宿舎の準備がまだ整っておらず、模範生で卒業した東京家庭学校の寮から通学している。本意ではなかったが少しの辛抱だ。それよりも山手線に大塚から品川まで乗る事が嬉しい。

 進学祝いの自慢の時計を身につけて、山手線に乗る。

 初めてあの女学生を見たのは、通学何日目の事だったか。

 目白駅から乗ってくるおさげ姿の女学生。同じ時間の同じ車両。女学生を見るのはこれで2日目……3日目……。そして義江の初恋となった。

 大塚駅を電車が出発すると、もう胸がドキドキし、池袋のホームに入るとじっとしていられず立ち上がり、次の目白駅に備え目を皿のように近づくホームをガラス越しに見つめた。

 その女学生が乗ってこない日は、目白で下車して1本待って次の電車に乗った。それでも女学生が乗ってこない日は、1日中放心状態で心はもぬけの殻だった。初めて人を好きになるという苦しさを味わう。

 それはお女中のお愛にされるままになった時の心の痛みとは全く違うものだと認識した。

 ある日の事。目白に到着するや否やおさげの女学生の姿を確認して、席に座った。目白からは大勢の乗客が乗り込んだが、義江の隣は人が1人座れるか座れないかの隙間があいていた。すると女学生の友達らしき友人が、

「山田さん、ここ座れるわよ」

 と言って、おさげの女学生を無理矢理その狭い隙間にすわらせた。

「山田さんというんだ……」

 義江は女学生の名前が分かった事が嬉しく、さらに身体が密着している事が天にも昇る気持ちだった。

 山手線は新宿に入り大きく揺れた。その時「おさげ山田」は両手に大事そうにかかえた風呂敷包みごと、義江に身体が寄りかかった。さらに揺れは激しく、手と手も一瞬ではあるがふれあった。義江は全身に電気が流れたような衝撃におそわれた。

 せっかくの好機なので、何か一言話しかけようと思ったが、唇がこわばり気のきいた言葉も浮かばない。いつもより山手線の速度が倍の速さに感じられるほど、時が早く過ぎてしまう。

明治学院に入学した頃の義江。女学生たちがみな憧れる容姿だった

 義江は自分が好きだという気持ちだけが先走っていたが、おさげ山田も義江に好意を寄せていた。義江はまだこの時気づいていないが、義江の容姿は女学生の心を一瞬にしてかき乱す事ができる程だった。長身、大きな瞳にりりしく太い眉、女学生たちがいつもそっと見つめる横顔は、高くきれいな鼻梁だ。

「見たこともないような美男子の学生服が山手線に乗っていたわ。あの方はいったいどなたなの」

 と、何人もの女学生が幻でも見たようにそれぞれ友人たちに話した。

 黒い帽子に詰めえり姿の登下校中の義江に、どれくらいの女学生の心が奪われただろう。おさげ山田しか見えず、自分の容姿の美しさに気づいていない義江はまだまだ青かった。

 義江の乗った山手線は、ざわつき始めた。

 正確には、おさげ女学生に夢中になっていた義江にはそのざわめきが耳に入らなかった。

 なんと、車両に乃木将軍が乗って来たのだ。馬にまたがり通勤する乃木将軍を目撃した者は多いが、山手線に乗り込んで来た乃木将軍を見た者は少ない。

 日露戦争の旅順攻囲戦の勝利は人々の記憶にしっかりと残り、乃木希典は英雄だった。乗客たちは、

「乃木将軍だ」

 と口々にしていた。

 義江も一気に興奮して立ち上がった。幼少期に自分はどれだけ乃木将軍になりきり戦争ごっこをして、ロシアのステッセル役を倒しただろう。義江にとって一番の英雄は、今こんなにも近くにいる乃木将軍なのだ。メンコの絵で、杵築の祭で、大阪の活動写真で、新聞や雑誌でも多くの乃木将軍の絵や写真を見てきたが、本物はもっと勇ましい。義江は乃木将軍の横まで乗客をかき分け歩いて行った。

「横にいる将軍と目が合いほほえんでくれた」

 義江の妄想なのか。代々木で降りてしまった乃木将軍への興奮は収まらなかった。

 初恋だ、電流が走る、などと思っていたとなりの女学生の事は、乃木将軍を目の前にしては正直どうでもよくなってしまった。

 この日のあとすぐに義江は明治学院の寄宿舎に入ったので、あの女学生を見かける事はこの日以来一度もなかった。初恋ははかなく「乃木将軍山手線出現」によって終わりをむかえた。

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 比較的おとなしくしていた東京家庭学校の頃とは違い、明治学院の寮生活では生来のやんちゃな義江に戻ってしまった。

 寄宿舎の生徒たちは、食事のおかずの改善を要求するために「まかない成敗」という運動を月に1回の割合で起こす。

「もっと美味しいメシが欲しい!」

 おひつを窓から投げ出し茶碗を叩き、授業には出ない。

 こっぴどく怒られるが、決まってこの運動の直後は、おかずが格段に美味しくなる。怒られる時、義江はなぜか他の生徒より倍怒られる。

 寮では様々なイタズラが横行する。

 ある日義江は寝坊して洗面所に駆けつけた。寒い日はまかないのおばさんに頼んでヤカンいっぱいのお湯を入れておいてもらう。

 顔を洗うといつもと違ってぬるく、妙な匂いが鼻についた。「おかしいな」義江はバシャバシャと顔を洗う。そのうちに頭の上の階段に悪童たちが並び下の義江を見ながらゲラゲラと笑っている。

「やーい、小便で顔を洗ってら。お前は出世するぞー」

「ワッ、小便だ」

 義江はこの仇はしっかりといたずらで果たした。

 憧れの野球部にも入部し、中堅選手として腕をふるっていた。

 そんな矢先、明治天皇が崩御された。

 諒闇(りょうあん)中は、学校も世間も派手な事は一切ご法度となった。

 そんな雰囲気におされてか、明治学院の野球部も元気がなく、ほどなくして野球部は教員会議で廃部となってしまった。

 義江たち部員は納得がいかず、奮起して学校に内緒で部を存続させた。

 より熱心な練習や、他流試合にのぞんだ。

 近くの第一高輪中学や荏原中学、少し遠征して青山学院にも試合に行った。義江がバッターボックスに立つと、相手の応援団から、

「イョー、アーメン、どうした」

 とヤジが飛ぶ。

「なんだ、この野郎」

 とカッとして義江は怒鳴り返す。

 東京家庭学校できたえられた義江に怖いものなどなかった。

 そのうちに「部活動として認められていないのに、試合などに行っている」という事が問題となり、選手一同教員室に呼び出され強く解散を命じさせられた。

 シャクにさわった義江たちは、勉強など全くしなくなってしまった。

 そうこうしている間に今度は乃木将軍が殉死したという。義江はついこの前、山手線内で見た立派な姿を思い出して、信じられない思いでいっぱいだった。

 後年、義江と伴侶になる中上川(藤原)あきはこの当時女子学習院に通っており、院長が乃木希典になってからというもの、華美な校風を封印され不貞腐れていたが、院長の強烈な殉死に動揺した。

 

 昭和天皇の晩年の未公表の歌が、直筆の推敲文とともに見つかったと、2019年の新春に報道された。

 学習院初等学科(当時)に通うことになった際の乃木院長とのやりとりを歌ったもので、乃木院長から通学方法を問われ、「晴天の日は歩き、雨の日は馬車」と答えたところ、「雨の日も外套を着て歩いて通うように」と言われ、昭和天皇は「贅沢はいけない、質実剛健ということを学んだ」と思われたという。

「雨(の)時は馬車(うまぐるま)にて學校にかよひたること(りしが)のぎはさとせり」

 裕仁親王にさえ、「質素・勤勉」を身につけさせることを徹底した乃木にとって、あきなどの裕福な女学生たちなどは、華美な校風となっている諸悪の根源であり、一網打尽のごとく封じ込めた事は言うまでもない。

 義江の方だが、隠れての野球活動で叱られ不貞腐れているところに思わぬ知らせが入った。

 瓜生家の大黒柱、瓜生寅が危篤だという。

 義江は取るものも取らず白金の寮から新宿淀橋の瓜生邸に急いだ。(つづく)

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執筆者プロフィール
佐野美和 政治キャスター。東京都八王子市出身。株式会社チェリーブロッサムインターナショナル代表取締役。大学在学中、フジテレビの深夜番組として知られる『オールナイトフジ』のレギュラーメンバー「オールナイターズ」の一員として活躍した。1992年度ミス日本に選ばれる。TBSラジオのパーソナリティ、TBSラジオショッピングの放送作家を経て、1995年から2001年まで八王子市議会議員として活動。以後はタレントとしてテレビ出演のほか、講演会も精力的に行う。政治キャスターとしてこれまで600人以上の国会議員にインタビューしている。主な書籍に『アタシ出るんです!』(KSS出版)、『あきれたふざけた地方議員にダマされない!』(牧野出版)などがある。
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